白銀の約束
あかねは涙ぐみながら、目を閉じたまま動かない友雅に呼びかけた。 「友雅さん。……友雅さんっ! お願い…………起きて……!」 どうしよう。私のせいだ。 私が、いつまでも応えることができなかったから……。 私がいけないんだ。 「あかね。今宵こそは、色よい返事をいただけるかな?」 「えっ?」 「私の、邸に来ることだよ」 友雅が穏やかな笑みとともに綴る言葉に、あかねは表情を少しだけ曇らせた。 「えっと、その……。ま、まだ……」 「なぜ?」 「だ、だってまだ和歌も詠めないし……」 「そんなのかまわないよ。君さえいればいいのだから」 「で、でも。お香も……」 のらりくらりとはぐらかそうとするあかねの言葉の続きを、友雅は不機嫌そうに打ち消した。 「……この間も同じこと言っていたよ。だから私は待っていた。それからどれほどの時間が経ったと思う?」 「……………」 「二月経つのだよ」 友雅の願いを聞き入れ、また自分自身も強く望んで京に残ったのが今年の六月。それから友雅とあかねの付き合いは始まったが、それは京の常識にとらわれない、全く自由なものだった。 とはいえ友雅としては、やはり愛しい者を近くに置いておきたいもので、あかねに前々から邸に来るようにと誘っていたのだった。 「でも……」 「でも? 藤姫が寂しがる? それとも手習いが終わっていないから? だが藤姫もよいと言ってくれたし、手習いは通えばいい。私の邸でもできるしね」 口ごもるあかねに、友雅はいらだたしげに続きを奪った。 あかねはまた黙ってしまう。 あかねが口ごもるのには訳があった。邸に行きたくない訳が。 自信が、ないのだ。 自分に自信が持てなくて、友雅に釣り合う人は他にいるのではないかと不安で。また、京の常識に明るくない自分が、友雅に恥をかかせないかという不安もある。 そんな状態で、友雅との距離が縮まるのが、たまらなく怖かった。 「……………」 しかしそんな子供じみた気持ちを友雅に知られたくなくて、打ち明けることもできずあかねはうつむいた。 そんなあかねを見て、友雅はため息をつく。 「……私が、嫌いになったかな?」 その声は心なしか震えているような気がした。 あかねは弾けるように顔を上げた。強く強く否定する。 「そんなわけありません!!」 「ではなぜ?」 そう言われると、やはり答えられなくて……。 「君に無理を強くことはしたくないと思って今まで待っていたのに、君はまだ私を拒むの? 私はあまり我慢強い方ではないのだよ。君にそばにいてほしい」 「……………」 友雅の瞳が鋭く細められた。 「これほどまでに拒んでおきながら、それでも私が嫌いという訳ではないときた。しかも理由を明かしてくれない。……なら、無理やりにでも攫おうか?」 友雅はそう言うと、さっと立ち上がりあかねを抱き上げようとした。 「きゃぁ!」 常にない強引な態度。それだけ本気だということが見て取れた。 だからこそ、なおさら怖くなる。 「や、やだっ……!」 あかねは友雅の腕の中からもがき逃げると、そのまま外に向かって逃げ出した。 「あかね!?」 友雅のびっくりしたような声と、慌てて追いかけようとする気配。それを背に受けながら、あかねは藤姫の館を飛び出した。 友雅がすぐに追ってくるだろうというのを感じながら、それでも、あかねは逃げずにいられなかった。 藤姫の館を飛び出し、無我夢中で走る。 道は降り積もった雪で走りにくかった。 「あかね!」 少しして聞こえた友雅の声は、馬の蹄の音とともに聞こえた。 振り返ると案の定馬に乗った友雅。すぐに追いつかれてしまい、隣に並んだ友雅を見て、今度は茂みの中に逃げ込んだ。 「あっ!」 茂みを抜けると、そこには切り立った崖。 あかねは危ういところで足を止めた。 「あかね」 他に道は……。と辺りを見回していると、馬から降りて追って来た友雅を見つけてしまった。 前には崖。後ろには友雅。 あかねは崖を背に友雅と向き直った。あがった息が白く染まる。 「あかね、もう逃げないでおくれ。嫌ならば無理強いはしない、すまなかったね。そこは危ないよ、こちらへ来なさい」 友雅はあかねの後ろに崖を見とめると、優しくなだめるように言った。 友雅はそう言ってくれても、こんな態度をとってしまっては簡単には戻れない。 あかねがその場に立ち尽くしているのを見ると、友雅は一歩だけ歩みを進めた。 「……や……」 小さくつぶやいてあかねも一歩下がる。 その瞬間、あかねの体がぐらりと揺れる。雪の下に隠れていた草に足を攫われ、そのまま滑ったのだ。 「きゃぁあ!」 「あかね」 世界が揺れる感覚。重力に引っ張られる感触。あかねは崖下へと落ちていった。 最後に覚えているのは、侍従の香りと力強い腕の温もり。そこで、あかねの意識は途絶えた。 「……んっ…………」 冷たい空気にぞくっと寒気を感じ、あかねは目を開けた。 体のあちこちが痛い。崖から落ちたのだと気づいたのはその痛みを感じたからだった。 あんまり高い崖じゃなくてよかったかも。そんなことをぼんやり思う。 薄く色づいた空気の中でゆっくり身を起こすと、自分が体を預けていたものの姿が目に入った。 「……友雅さん……?」 あかねが下敷きにしていたのは友雅。目を閉じてぴくりとも動かない姿がそこにあった。 「と、友雅さん!? 友雅さん、返事して!?」 見ると頭から血を流している。所々の皮膚にも軽い擦り傷がある。白い雪の上にも、転々と血痕が見えた。 「友雅さん!!」 今更に、自分が無傷なのは友雅がかばってくれたからだとわかる。 最後に感じた腕は友雅のものだったのだ。 (どうしよう……。どうしようどうしようどうしよう……!) 助けを求めて辺りを見回すが、誰もいない。暗くなりかけた空の中ではここがどこなのかもわからなかった。 崖の方はとても一人では登れそうにない高さだ。先程"あまり高くない"と感じだのが嘘のように高い崖に思えた。 ――私の、せいだ。 私がわがまま言ったから、逃げたから、こんなことになってしまったのだ。 あかねは涙で頬を濡らしながら、友雅の名を呼び続けた。 「……あ……かね……?」 友雅が応えたのは、呼びかけの声よりも嗚咽の方が強くなってしまったころ。 かすかに聞こえた声に、あかねは友雅の顔をのぞき込んだ。 「友雅さん!!」 「ど……したの…………?」 泣いているあかねの目尻に手を伸ばしつつ、かすれた声で友雅は聞いた。 「よっ、よかっ……!」 友雅が目を開けたことに安心して、あかねはへたり込んだ。 「……あかね……?」 友雅がゆっくりと体を起こす。ふらつく体をあかねは慌てて支えた。 「ああ……。落ちてしまったのか……」 崖を見ながら友雅はやっと状況を理解する。意識は正常なようだった。 「ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!!」 泣きじゃくりながら謝るあかね。 友雅はあかねに手を伸ばし、そっと引き寄せた。 「君が無事で良かった……」 抱きしめられて、あかねは友雅の胸の中で泣きじゃくった。 ひとしきり泣いた後、友雅に言われてやっと顔を上げる。 「さぁ、もう泣かないで。怪我はない?」 「そ、そんな事より、ともっ、友雅さんが……」 「ああ」 あかねに指摘され、友雅は自分の額から流れている血に気がついた。 「すまない。汚してしまったかな? 大丈夫、かすり傷だから」 袖口で血を拭いながら、なんでもないことのように友雅は言った。 「それよりも、まずは帰ろうか。ちゃんとしたところで休んだ方が良い。藤姫の館でかまわないから」 ね? という風に促され、あかねは何度も頷いた。早く友雅の傷の手当がしたい。 「よかった。では行こうか。暗くなる前に知っている道にたどり着けるとよ……っ!?」 そう言いながら立ち上がろうとして、失敗した。友雅はその場にへたり込んだ。 「友雅さん!?」 あわてて駆け寄るあかね。 「やぁ、これは……まずかったかな」 軽口をたたこうとする友雅。 しかし歪めた表情から、相当な痛みに耐えていることがわかった。 (熱をもっているようだ……少しばかりまずいな……) 「ど、どうしよう……」 おろおろするあかねにほほ笑み、なんとか立ち上がるだけ立ち上がった。 「すまないけど、館に戻るのは諦めてくれるかい? 君だけでも戻らせてあげたいけれど、この暗さでは一人では危ない」 「ばかっ! 何言ってるんですか! 私より自分の心配してください! どこか……どこか休めるところ……」 あかねは今にも泣き出しそうな顔で辺りを見渡した。 「ちょっとその辺見て来ます」 「だが一人では……」 「だって友雅さんこのままにしておけません! せめて座れるところを見つけないと」 違う季節ならばこの場所でもよかっただろう。だが今は冬。自分たちは積もった雪の上に立っているのだ。 ただ雪の中に座っているのは危険だ。体温を奪われてしまうし、雪が溶けて着物が濡れてしまえば、風邪を引いてしまう。 あかねは友雅の心配をよそに辺りを見に行ってしまい、そしてしばらくして戻ってきた。 「向こうに崖が迫り出しているところがあるんです。その下には雪が積もっていなかったから……。ただ狭いんですけど……」 そこでもいいですか? とあかねは友雅に聞いた。 もちろん友雅に異論があるはずなく、あかねに少しだけ体を預けながら、その場所に向かった。 その場所は川のほとりにあった。崖が迫り出しているというより、遠い昔に川の水に削られてできたものではないかと推測できる。 「……ふぅ……」 友雅がやっとのことで腰を下ろし、大きく息をついた。 その深い呼吸から、かなり大変な状態だろうとわかり、あかねはいたたまれない気持ちになった。 「……ごめんなさい」 消えそうな、泣きそうな声であやまるあかね。 友雅は乱れた呼吸を整えつつ、 「あやまらないでおくれ、あかね。私は今情けない気持ちでいっぱいなのだから」 と苦笑した。 「どうして友雅さんが?」 「だってね、愛しい人の考えていることが分からずに自分ばかりが先走って、困らせたばかりか逃げ出されてしまって、あまつさえ追いかけ回してしまったしねぇ」 「だ、だってそれは私が……!」 「それに、君をかばえたことはいいけど、自分は気を失い怪我までしてしまって、なんとも格好悪くて情けない……」 ぶすっとした顔で言い、ねぇ? と友雅は苦笑しながらあかねに同意を求めた。 自分に気兼ねをさせまいとする友雅の気遣いがとても伝わってくる。 その優しさにあかねは涙がこぼれそうになった。 「これでは、君の隣にいる男失格だねぇ。情けない男だ」 「……ない」 「えっ?」 「情けなくなんか、ない。友雅さんはいつも格好良くて、強くて、優しいよ。私なんかにはもったいないくらい……」 あかねはうつむきながら言った。 そう、友雅はすてきな人だ。自分の方こそ隣にいていいのかと悩んでしまうくらいに。 その思いが顔に出てしまったのか、友雅はこんな風に聞いてきた。 「…………もしかして、それが理由?」 「えっ?」 「私の邸に来るのを拒んでいることの」 「あっ……」 しまった。つい。 しかしバレバレな様子なので、あかねは恥ずかしさに顔を真っ赤に染めながらコクンと頷いた。 「よかったら話してくれまいか? 君が胸を痛めている理由を、具体的に」 友雅は優しく言った。 あかねはしばらく迷っていたが、やがておずおうと口を開いた。 「自信が……ないんです」 もうバレているというのもあったが、先程とは比べられないくらいすんなり理由が話せた。なぜだろう? 「友雅さんは格好よくて、強くて、優しくて……それに大人で。私みたいなお子様がそばにいても、釣り合わないんじゃないかって……思うんです。もっと素敵な大人の女の人のがいいんじゃないかって」 この冷たい冬の空気がそうさせるのかもしれない。寒さが、逃げることを忘れさせ、寄り添うために力を貸してくれる。 「私はこの世界のことあんまり知らないし、今友雅さんの邸に行ったら、友雅さんに恥をかかせちゃいそうで……。だから、友雅さんとの距離が縮まるのが怖かったんです」 友雅さんはずっと待っててくれているのに。 あげくに、今日の事件である。あかねは話ながら、情けない気持ちで一杯になった。 「私がこんなにバカだから、友雅さんを困らせて……。今日だって私がもっと大人だったら、こんなことにならなかったかもしれないのに……」 でも……、とあかねはかすれた声を出した。 「でも、怖くて」 ぽつり、と涙がこぼれた。 それまで黙って聞いていた友雅が、あかねを引き寄せて抱きしめた。 「やはり私は情けない男だね。君がこんなに苦しんでいたのに、気づくことができなかった」 友雅はあかねの頬に手を添えると、そっと上を向かせる。 「だけどね、覚えていて。……私も同じ思いを抱えているということを」 「えっ?」 「恋人同士というのは皆そんなものだろう。相手に似合う自分になりたくて、その気持ちにはどこまでも終わりがない。特に君はかつて龍神の神子だった。私は、この高貴な存在を受け止め、幸せにできるのかと何度も思ったよ」 初めて聞いた。 いつも友雅は余裕にかまえていて、遥かな高みから自分を見守る大人だと思っていた。 こんな気持ちを、友雅も抱えていたなんて。 これは私の気持ちだから、納得するかは君の自由だけど。そう前置きをしてから友雅は話を続けた。 「こんな事ばかり考えていてもらちがあかないよ、終わりがないのだから。身も保たないしね。だから、自分が何をしたいか、それをまず考えるのだよ。もちろん不安が消える訳がないのだから、つねに向き合っていなければならないけど」 でもね。 涙の通った道を、そっと友雅はなぞった。 「それは仕方のないことだろう。……昔は適当に生きていて、逃げてばかりいた私がいうのもなんだけれど、これは戦っていかなければならないことだよ。ま、自分への挑戦、だね」 あくまでも私の見解だけどね。再びそう断って、友雅は一旦口を閉ざした。 あかねは先程から黙って聞いている。 ひたむきに自分を見つめ、耳を傾けている少女に、友雅はほほ笑みかけた。 「私は、その気持ちを君教わったのだよ?」 「わ、私に……?」 「そう。龍神の神子であった君に。君はいつでも前を向いていて、何もないところから可能性というものを取り出して見せてくれた。そんな時の君の顔はとてもまぶしくて、吸い込まれそうだったよ」 「わ、私そんなすごいことなんか……」 「自覚がないとは恐れ入ったね。知っている? 神子であったときも今も、君はふとした瞬間とても大人びた表情をするのだよ? まるで朝露に濡れた大輪の華が強く香るようにね」 その時、くしゅん。とあかねは一つくしゃみをした。 夜が更けるにつれ空気はますます冷たく、今まで忘れていた寒さを思い出してしまった。 ふるっ、と震えるあかねを、友雅は羽織っていた桂で自分ごと包んだ。 「前向きに戦っていくのは、君の得意技じゃないか。別に戦わなくてもいい。不安と割り切って付き合っていけばいいのだよ。……君は何がしたい?」 自分のしたいこと。心が望んでいることを聞かれ、あかねは少し考えてから口に出した。 「友雅さんと……ずっと一緒にいたい……です」 それを聞いて、友雅はふっと温かく笑った。 「嬉しいね」 その笑顔が嬉しくて、あかねは友雅の胸に頭を預けた。 「友雅さんの邸に行ったら、ずっと一緒にいられるんですよね……?」 「ああ。昼も夜も、いつでも一緒にいる事ができる」 「……でも……。不安な気持ちと向き合わなくちゃいけなくて……」 「一緒に戦っていくことはできない?」 「戦って……くれますか?」 あかねは友雅を見上げて聞いた。 「もちろん」 返ってきた言葉はとても力強くて、あかねは勇気が出てきた。 (そうだ……忘れてた……) 龍神の神子であったころ、自分がなんの為に強くあろうとしたか。 そしてそれを支えてくれた力、それの存在を。 「どうかした?」 友雅が聞いた。 「思い出しました」 「なにを?」 「約束を。友雅さん私に"どんな時でも力になろう"って言ったの覚えてます?」 「ああ。覚えているよ」 「その言葉が私を勇気づけてくれたんですよ。一人じゃない、そう思ったから頑張れた」 だからね、とあかねは言った。 「だから今度は、私が約束します。友雅さんのと一緒にいる。どんなことがあっても戦う。絶対負けません。だから、友雅さんの邸に連れて行ってください」 「本当に……いいの?」 あかねの申し出に、友雅は確認するように聞いた。 あかねは暗闇の中、静かに輝く白銀の雪を背に頷いた。 「はい。約束、します」 後日、あかねは友雅の足の回復を待って橘の邸に移った。 藤姫の館と違い、あかねが異なる世界の人間だということが浸透していない分不自由もあったが、それでもあかねは幸せだった。 それは、困難に立ち向かっていく勇気をくれる人が、すぐそばにいるから。 その人のために、明日も華を咲かせようと心に決めて、自分と向き合っていく。 友雅が困難に出会ったときは、自分が力になれるように。 |
〜あとがき〜 この話は前に私が所属していた遥かサークルに掲載していただいたもので、かなり前に書いたものです(だって季節を考えたら1年越しになっちゃんだんだもんよ……/汗) 今回もタイトルに余談があります。本当のタイトルは「白い約束」でした。雪の中でした約束だから、とこのタイトルにしたのですが、ふと気がつくと「…洗濯機の名前…?(汗)」ま、白銀の方が雪に近いしってことで、ね(笑) 今回の友雅は大人げないですね〜。なんてったってあかねちゃんを馬で追いかけ回しちゃうんだよ? 「友雅さんはこんな人じゃなぁ〜い!!」とか葛藤しながらも結局あの展開に。まぁ、作者も友雅さんもいっぱいいっぱいらしくて微笑ましいですね(爆) それと、友雅があかねにした約束はオフィシャルネタではありません。あるかもしれないけど、その辺を確認せずに描いたので(爆)作者の中の友雅が約束したことにしておいて下さい。 他にも叩けばたくさんの埃が出てきそうですが、自ら首を絞めるのはホドホドにしておこうということで。 |
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