早 桜

 ゆるやかな風が吹き抜ける墨染を、友雅は一人、歩いている。
 辺りには人の気配が全く無い。見渡す限りの自然。その中に友雅はいた。
 京で一番に咲き始めたこの場所の桜たちは、他がまだ細枝を隠し切れていないのをあざ笑うかのように咲き誇っている。それは顔を隠す姫君たちの扇や袖几帳にも似て、優雅で可愛らしかった。
 一際大きな桜の樹の前に来て、友雅は周りを見渡した。
 だが、探す人影は無い。
「早く来すぎてしまったかな?」
 風に遊ばれ乱れた髪を整えながら、友雅は独りごちる。
 その時、ひらりと薄紅の衣が舞い落ちてきた。
「?」
 衣を手に上を見上げると、友雅は息を飲んだ。
 そこに、天女か桜の精かと見紛うほどの神気に包まれた少女がいたのだ。
 美しく、圧倒的な存在感を持った少女に、友雅はのまれてしまって視線が外せない。金縛りにあったかのように上を見上げて静止していた。
 少女が微笑んだ。というより相好を崩して笑った。
 その笑顔に朝の澄んだ空気のような冷たい色は消え、春の、場所に見合った暖かさが戻ったような気がする。
「あ〜あ、バレちゃった」
 ペロっと舌を出して照れくさそうにするあかねに、ふっと友雅の緊張が解けた。
「あかね……。そんな所にいたのかい?」
「えへへ、友雅さんを驚かそうと思ったんだけど、その前にバレちゃいましたね」
「いや、十分に驚いたよ。そのような所に登ってしまうなんてね。おいで」
 友雅が手を伸ばすと、あかねはそれに逆らわずにゆっくりと降り始め、友雅の腕の中に収まった。
「よっ、っと」
 最後の距離を友雅に支えてもらいながら飛び降りると、あかねは服装の乱れを直して友雅に礼を言った。
「ありがとうございます」
「お易い御用だよ。しかし、木登りなどして、怪我をしたらどうするんだい?」
 少し咎めるような言葉だけれど、友雅の表情は笑っていて、怒っているという風ではない。
 むしろ、この突拍子も無いこの少女の行動を楽しんでる風であった。
「大丈夫ですよ。私、小さい頃木登り得意でしたから」
 この木は登りやすかったと笑うあかねに、友雅は思わず苦笑する。
「まぁ、怪我をしたら、私が悲しむという事を覚えていてくれればいいけれど」
「はぁい」
 しおらしくあかねは頷く。しかしその瞳は悪戯に輝いていて、子猫を思わせた。




「それにしても、今年も美しく咲いたね」
「そうですね」
 桜の樹を見上げながら、誰ともなく呟くと、あかねが相槌をよこした。
 二人並んで見る桜は、春の訪れの象徴。
 まだ寒い日もあるというのに、一足先に訪れた墨染の春は心を温かくしてくれる。
「去年もこうして、桜を見上げましたね」
 あかねが友雅に寄り添いながら言った。
「そうだね」
 友雅もあかねの肩を抱き寄せながら言う。
「……もう一年、経っちゃったんだ……」
 風に揺れる桜を見ながら、あかねはそっと呟いた。
 そう、この桜の元で、自分たちが始まった。




「友雅さん! すっごい綺麗ですよ桜!」
「ああ、そうだね」
 にこにこと嬉しそうに言うあかねが伝染ったのか、友雅も表情を和らげて答えた。
「ああ、そこ。根が飛び出しているから気をつけて」
「大丈夫ですよ! ……んきゃぁ!」
 大丈夫と言ったそばから躓き、転びはしなかったものの、あかねは勢い余って樹に体当たりをした。
「〜〜〜〜」
「おやおや、大丈夫かい? 全く言った傍から……」
 小さく笑いながら友雅が肩を抱き起こす。
 顔をぶつけたらしいあかねは、鼻を手で押さえて痛みを堪えているようだ。
 友雅はあかねを抱き寄せる。するとあかねが身体を預けてきたので、頭を優しく撫でた。
「そんなに痛い?」
「だ、だいじょうぶれす」
 ちょっと情けない顔に、友雅はまた笑う。
 ほんのり赤くなってしまった鼻の頭が一層おかしくて、あかねの肩に顔を埋めて笑った。
「もう、そんなに笑わないでくださいよ」
「す、すまない。でも……ね」
「なんです?」
「鼻の頭が赤くなっているよ」
「えっ!?」
 慌ててあかねが鼻を押さえる。
 その手を引きとめて、友雅はあかねの顔を覗き込んだ。
「擦ってはいけない。……ああ、大丈夫だね。擦り剥けてはいないからすぐ赤みも引くよ」
「み、見ないで〜」
 格好悪い自分を隠そうと、あかねが身を捩る。
 友雅はそれを許すことなく、あかねの鼻の頭をぺろりと舐めた。
「ひゃっ!?」
「おまじない。すぐに治るように」
「……もう……」
 あかねが真っ赤になって俯く。
 それから二人は、その桜の木の下に腰を降ろした。
「……ねぇ、友雅さん……」
 あかねは舞い落ちる花びらに手を伸ばしながら言った。
「なんだい?」
「友雅さんは、どうして八葉をやってるんですか?」
「どうして……とは? 龍神に選ばれてしまったのだから、仕方が無いだろう?」
 友雅は髪の毛をかきあげながら不思議そうに聞き返した。
 どう言ったものかと言葉を捜しながら、あかねは手のひらの上の花びらを突付く。
「いやまぁ、そうなんですけど。……う〜ん、いいや。ぶっちゃけちゃいますと、私、友雅さんってもっといいかげんな人だと思ってました」
「おや、それは酷いねぇ」
「だ、だって、鷹通さんとか藤姫とか、それから女房さんとかの話を聞いてると、遊び人みたいだなって思ったんだもん」
 友雅が悪戯っぽく視線をよこすので、あかねはドギマギしながら付け足した。だが、全然フォローになってなかったので、慌てて謝った。
「……すみません」
「ふふっ。謝る事はないよ。まぁ、大体合っているからね」
 苦笑しながら友雅が言う。
「あ、でも今はそう思ってないですよ? 優しいし、頼りがいあるし、きちんと約束を守ってくれる人ですよね」
「そんな風に思っていて、痛い目を見てもしらないよ?」
「それと、すぐはぐらかすけど、それはいろんな可能性を潰さない為だって、気づきました」
「…………」
 予想だにしなかったあかねの台詞に、友雅は目を丸くして紡ごうとした言葉を逃がしてしまう。
 そして次の瞬間には穏やかに笑い出した。
「それは買い被り過ぎだね。私はそこまで深く考えていないよ。ただ、なんとなく。そんな感じで答えているだけだから」
「でも友雅さんがそうやっていてくれるから、周りは……私はいろんなこと考える。ちゃんと考えるから、失敗しないで済んだこと、たくさんありますよ」
 友雅さんのおかげです。そう言って微笑むあかねを、友雅は目を細めて眩しそうに見つめる。
「本当に君は真っ直ぐだね。答えを出す事を恐れている、心の弱き者だとは考えないのかい?」
 問いかける瞳は闇色で、底が見えないほど深い黒だった。
 黒曜石にも似た深い瞳に吸い込まれそうだ。そんな感想を抱きながらあかねは友雅を見つめる。
「そうなんですか? でも、友雅さんは友雅さんのままでいてほしいと思いますよ?」
 そう言うと、一層驚いた様子の友雅が目に入った。
 一体何をそんなに驚いているのだろう? あかねは不思議そうに首を傾る。
 友雅はくしゃりと髪をかき混ぜ、大きく息を吐いた。
「参ったね。本当に君には驚かされる。さすがは龍神の神子……いや、君が君だからなのかな? 君は、私は本当にこのままでいいと、そう思っているのかい?」
「はい。……あ、でも、答え合わせはしてほしいと思いますけど」
「答え合わせね……。例えばどんな?」
 心なしかさっぱりした表情の友雅に見つめられ、あかねは慌てて考える。
「あ、えぇと……。さっきの答えは?」
「さっきの?」
「あの、八葉になった意味」
「ああ……」
 思い出して友雅は空を見上げる。そういえば先ほど、そんな話をしていた。
 視線の先の空は少し曇っていた。そして桜の紅がかった白。

 花曇り。そこに桜があるだけで、全てのものが美しく見えるのはなぜだろう?

「……それで、君の出した答えは?」
「えっ?」
「答え合わせなのだろう? ならば、君が先に見つけた答えを教えてくれなくてはね」
「ええ〜」
「教えてくれないのなら、私も答えない」
 悪戯っぽく流し見ると、あかねがむくれた。
 くるくると変わるあかねの表情は面白い。京の女性たちに比べて、どんなにか退屈しないことだろう。
 あかねの向けてくる拗ねた視線を穏やかな視線で受け止め、友雅はあかねの頭に留まった花びらを取った。
「仕方が無いね。今回は特別に教えてあげるよ。最初はね、ただ退屈を凌げれば何でもいいと思っていたんだよ。異世界から来た唐猫のごときは、突拍子も無い事ばかりしていたからね」
 自分のお転婆な行動のことを言われているのだと解り、あかねがごまかすようにエヘヘと笑った。
 ゆるやかに通る風に髪を押さえ、友雅は続ける。
「そのうちに、守りたいものが出来た。どうしても、何があっても、自分自身の手で守りたいと思うものがね」
 そう言ってあかねの方を見ると、同時に頬をわずかに紅く染めたあかねが見えた。
「ええと……その……」
 あかねは視線を逸らし、肩で揃えた髪を玩びながら言葉を捜した。
「その……、守りたいものって、何ですか?」
「そこまで聞くのは反則だ。先ほど特別にと言っただろう? 二つ目は答えてあげないよ。自分で考えた答えを教えてくれるまではね」
「や、だって……」
「何?」
 あかねがもじもじと俯くのを見て、友雅はわざとあかねの視線を捕まえるように覗き込んだ。
 視線から逃れられないと諦めたあかねは、上目遣いで恥ずかしそうに言う。
「そんなの、わからないもん」
「本当にわからない? 私の守りたいものが」
 そう言って、友雅はあかねの額に口付けた。
 それが意味する事は、もちろんあかねも気づいている。でも……。
「だって……」
 あかねがもごもごと小さな声で言った。
「……友雅さん……、自分の気持ち、私に教えてくれた事ないし……」
 口の中で消えてしまいそうなほど、小さな声。
 それでも、音を妨げる喧騒はここにはなくて、むしろ流れる風が、あかねの声を友雅に届けた。
「そうだった?」
「そうですよ。……私は、好きって言った事、あるのに……」
 恨めしげに言うあかねを見て、やはりそうなのだと自覚する。
 自分は、答えを出す事に怯えている。
 あかねに自分の気持ちをほのめかしているくせに、形にすることを恐れている。
 それは何故か?

 それは、彼の人がいつかは帰ってしまうと知っているから。

 でも……。
「友雅さん?」
 あかねが見上げてくる。
 その拗ねるような、そして答えを望むような瞳に吸い込まれてしまいそうだ。
 もう戻れない。目を逸らせない。自分はこの華に留まり羽を休める事を知ってしまった。
 この少女の放つ新鮮で艶やかな薫りに、捕らえられてしまったのだ。
 逃れる事はできない……。
 友雅はゆるやかに唇を吊り上げた。
 あかねの手を引き寄せ、華奢な身体を腕の中に閉じ込める。
「私はね、君のことを愛しているよ」
 他の誰にも聞こえないよう、風さえにも聞こえないように、友雅はあかねの耳元でもう一度囁いた。
「愛しているよ」
 惚けたような表情のあかねの顎を吸い取り、唇を重ねた。

 もう戻れない。


 ──だから、ここから始める。




「この場所で、友雅さんが初めて好きって言ってくれたんですよね」
「そうだったね」
 正確には“好き”ではなく“愛している”なのだが、あかねにはあまり変わらないらしい。
 しかし友雅自身は違う意味に捉えているので、こんな風に言ってみた。
「しかし君は、私に愛していると言ってくれた事がないね」
「えっ? たくさんあるじゃないですか」
「好きとは言ってくれるけれど、愛しているとは言ってくれた事がないよ?」
 あかねの顔を覗き込んで見つめると、あかねが頬を染めた。
「そんなの一緒じゃないですか」
「いいや、違うね」
「一緒ですよ」
「違うよ」
 友雅にとって、“愛している”という言葉は掛け替えのない者へ贈る言葉だ。意味は同じでも“好き”では重みが違う。そう思っている。
 だから以前から、あかねからの言葉を待っているのに。
「……友雅さんって、恥ずかしい言葉ばっかり言わせようとするんですね」
「そうかな?」
「そうですよ」
「そうでもないよ」
「そうですってば」
 埒もあかない言葉を紡ぎ合って、ふと二人我に返って笑った。
 ひとしきり笑い合ってから、友雅は背後にそびえる一番の大樹を振り返る。
「あの時まで私は、言葉にしてしまう事を恐れていてね。言ったが最後、戻れないような気がしていた。しかしこの桜の下で君の瞳を見て、とっくに戻れなくなっていた事を知ったよ」
 一年前に自分達を見ていたこの桜は今年も咲いた。
 あの頃は春が過ぎようとしていた頃だったが、今は春の始まり。だがたゆたう華は同じ桜だ。
 そして遠い日に見たあかねの瞳が、今も同じ輝きなのを確認して友雅は微笑む。
「だから、離さずにいるために、掴んでおくために言葉を紡いだ。君はやがて帰ってしまう人だと知っていたから、理に逆らう力を得るために。そして……」
 友雅はあかねを強く抱きしめた。
「君は今、私の腕の中にいる」
 風に混じって友雅の香が聞こえる。
 あかねは腕の力に逆らわずに、また自らも腕を回した。
「来年もこの桜が見られるだろうか?」
 友雅は小さく言った。
「君は突然に消えてしまいはしないだろうか?」
「友雅さん……」
「幸福な分、心のどこかで不安だね。……だから、言葉の鎖が欲しいのだよ」
 腕の力がゆるんだと思ったら、真正面に友雅の顔があって、コツン、と額同士がぶつかった。
「私は君を愛している」
「私も好きです」
「愛しているとは言ってくれないの?」
「だって……恥ずかしいもん」
 頬を染めて抗議するように言うと、仕方がないねと友雅は笑った。
「まぁいつかは言っておくれ。さ、そろそろ帰ろうか?」
 来た頃は昼下がりといった時分だったが、いつの間にか陽が傾いてきている。
 同時に気温も下がり始め、もうすぐ静かな闇がやってくる。
「今日は土御門に泊まるのだったかな?」
「そうです……けど、やっぱり邸に帰ります。愛してる人のそばがいいですもん」
 うっかりすると聞き逃しそうなほどさらりと言われた言葉に、友雅が一瞬止まる。
 そしてあかねを振り返ると、あかねは照れくさそうに笑っていた。
「あかね、もう一度」
「いやです」
「つれないね。睦言は聞こえなければ意味がないよ?」
「でも聞こえたでしょ? さ、帰りましょ」
 あかねは取り合わない。恥ずかしい言葉は何度も言えないもの。
 やれやれと友雅は息を吐き、さくさく歩き出したあかねの後を追った。
「あかね、愛しているよ」
「そうれはどうも」
「愛しているったら」
「わかりましたって!」
「……来年もまた、二人で見に来れるといいね」
「来ますよ」
 あかねがきっぱりと言う。
 友雅はゆるやかに唇を吊り上げた。
「そうだね、見に来よう」
 二人を見送る桜の樹は茜色。
 夕日の紅を受けて、艶やかに輝いていた。

 

〜 あとがき 〜
 手段の為に目的が消えた〜!!??(爆)
 本当はこの話、友雅にあるセリフを言わせたくて書き出した話なのですが、書いてるうちに織り込めなくなってしまいまして。ムリに言わせようとすれば言わせる事も出来たのかもしれないのですが、それだと話が迷宮に入っちゃいそうで……。あうあうあう。
 何だか髪の毛を揃えているようでしたわよ。こっち切ったらあっちが長く見えて、あっち切ったらそっちが長くて……。結局短くなっちゃった! みたいな(苦笑) 使いたかったセリフは、いつか違うネタ考えてリベンジします。
 ちなみに、作中あかねさんが木登りしてますが、良い子の皆さんはマネしないようにね。桜の枝を折っちゃったら、せっかく綺麗なのにもったいないですもんね(それ以前に木登りする年齢じゃないだろうに……) ちなみに自分は木登りしたことないのです。木登りしていた子を下から突付いた事はあるけど(爆) はい、これもマネしちゃいけませんね。
 家の前の桜の樹がつぼみをつけたみたいです。咲くのが楽しみです。早く咲け〜(まじないオーラ)
 読んでくださりありがとうございました。
 桜の本数分死体が埋まってたら大変だなぁと思う水蓮でした。

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