遠 雷
虫の音が響く藤姫の館の庭。その庭を一番に愛でる事ができる釣殿には、ゆったりと構える人影があった。 見える人影は一つ。ゆるく波打つ髪を風にあそばせて、盃を重ねる友雅の姿。 その様子を渡殿から見つけたあかねは、おどろかせようと忍び足で近寄っていく。 「わっ!!」 猫のように忍び寄ったあかねは、友雅の背中に向かって声をあげた。 驚いて振り向くだろうと予想していたが、しかし友雅は背を向けたまま動かない。 一瞬拍子抜けして、そして困惑して、あかねはそぉっと友雅の前方に回ってみた。 友雅は、脇息にもたれながら、静かに瞳を閉じていた。 「こんばんは、姫君」 その瞳をゆっくりと開きながら、友雅は穏やかな笑みを浮かべた。 あかねは薄暗の中友雅の顔をよく見ようとしていたので、至近距離に友雅の微笑みがあって逆に驚いてしまう。 「こっ、こんばんはっ」 悪戯を仕掛けておいてこんばんはもないだろうが、あかねの頭は軽くパニックになっているのでしかたがない。 「ごっ、ごめんなさいっ、もしかして寝てましたか!?」 遠くから見かけた時に盃をあおっていたから、何の疑問ももたずに起きていると思っていたけれど、今思い返すと自信がなくて。 もはや自分の大声で起きてしまったのではと、あかねは慌てた。 「いや、寝てなどいないよ」 あかねの慌てぶりが面白いのか、くすくす笑いながら友雅。 よかった、と安堵したのもつかの間、冷静になって考えてみると、じゃぁなんで驚かなかったのか……。 「君が近づいてくる気配がしたものでね。それに風が君の訪れを教えてくれた」 あかねの疑問を先取りして、友雅が答えた。 「えっ、風が?」 「そう、君の衣の香りを運んで、ね」 「あ、そういう教え……なんですね」 この世界ではお香の香りによって誰だかわかってしまったりするらしいことを、この世界に来てから知った。 原料は限られているとはいえ、それを合わせた人の数だけ香りがある。たくさんある香りを、愛用する人ごと覚えてしまうのは、自分にはとても真似できないなぁとあかねは思うけれど。 「でもよくわかりましたね、私の香りだなんて」 あかねが使っているのは侍従の香だ。先日手に入れたばかりの品で、使い出したのもごく最近。 それに、たくさんの香りがあるといっても、中には似たり寄ったりの香りもあるわけで。第一友雅が愛用しているのも侍従の香。多少の違いはあれど、あかねと同じなのだ。いや、この場合友雅と同じ香をあかねが使っていると言った方がいいか。 「気になる女性の香(か)というものは、一度聞いたらいつまでも忘れないものだよ」 「えっ、あっ、えっ……」 いきなり耳元で囁かれて、あかねはうろたえた。 この場所が薄闇でよかった。きっと顔が真っ赤になっているだろう。 友雅が戯れの艶言を囁いてくるのは今に始まった事じゃないけど、どうしても慣れるものではない。 所詮は一度も男の子と付き合った事がない女子高生。相手は百戦錬磨(と天真や鷹通は言う)の色男。かなうはずがないのだ。 どうしていいかわからなくなってしまったあかねは、かなり不自然に話題を変えた。 「こ、こんなところで何をしていたんですかっ?」 冷や汗をかきながら、その笑顔はぎこちない。それが一層友雅の笑いを誘うのだけど、本人は気づく余裕もないようだ。 「ふふっ、神子殿が酒に付き合ってくれるのならば、お話するよ?」 「私お酒は飲めないんですけど〜」 「そう? 別に強くもない酒だが……なら、梅の実を漬けた飲み物は?」 それなら平気と笑うあかねに、友雅は盃を渡して果実水をそそいだ。 「ありがとうございます。で、何をしていたんですか?」 「おやおや、そのように面と向かって問われたのでは、心変わりを心配する姫君に怒られているかのようだ」 「えっ、わ、私そんなつもりは……」 「わかっているよ。それに安心しなさい。私の心は変りなどしないから」 「………………」 まったくもう。そういう事を平然と言っちゃうところが、苦手なんだから……。 話し易くて、たのもしくて、心配りが上手で……。そんな友雅だからつい傍にいたくなってしまう。外見の華やかさもさることながら、内面の優しさに惹かれて。 でも自分のようなお子様を好きになってくれるとは思えない。余計な期待はしたくないのに。 だから勘弁してほしいと思いながら、あかねは仏頂面で先を促した。 「で、何してたんですか」 ぶっきらぼうに言うあかねに気を悪くした風もなく、友雅は答えた。 「虫の音をね、聞いていたのだよ」 「虫?」 言われて耳をすますと、涼やかな虫の音が聞こえてきた。 たくさんの音が聞こえる。しかしそれは決して騒々しいものではなくて、とてもとても澄んだ音。この音を一つひとつ織り上げて衣を作ったら、極上の綾織物になる。そんな風に感じる自然の調べ。 「いいものだろう?」 虫の音に重なる友雅の声もまた艶やか。あかねはうっとりと瞳を閉じた。 「はい、なんだか暑さを忘れそうですね」 エアコンも扇風機もないのに、なんだかとても気持ちがいい。 そしてあかねはふと気づいた。 「……ってことは、私大声で邪魔しちゃった……」 あかねの顔から血の気が引く。自分はなんとも雅じゃないことをやらかしたものである。 (あああ絶対友雅さんに嫌われた。嫌われてないとしても呆れられた。今私の目の前で笑っていてくれるけど、それくらいの社交辞令なら友雅さん的には超余裕。ってか大人だもんね友雅さん。もう私ってばサイテー) 声には出さないが、急速に落ち込みモード。どうしようというような種類の百面相をしていると、忍び笑いが聞こえてきた。 隣に視線を向けると、身を折って忍び笑いを漏らしている友雅。 「友雅……さん?」 声をかけるのが怖かったが、かけないわけにもいかなかったので、恐る恐るあかねは声をかける。 「くっくっくっ、本当に君は……可愛らしいね。ああ、邪魔などとは思っていないよ。むしろ喜んでいる。君がいるだけで、場が華やぐね」 「なんだか誉め言葉には聞こえないんですが……」 自分に自信がないだけになおさら。 「くくっ、失礼。しかし真実だよ。君と過ごす時間は眩しくて、それだけに短く感じてしまうほどに」 「………………」 あかねは再び押し黙った。なんと返してよいかわからない。本当に自惚れてしまいそうだ。自分が友雅にとって、価値のある人間であると。 「きょ、今日も、いろいろと散策してきたんですっ」 またしても不自然に、あかねは話題を変えた。そうしないと、甘美な夢に飲み込まれてしまいそうで。 「ほぅ、どこへ行ってきたのかな? 私は今日は参内しなければならなかったから、ご一緒する事ができなかった」 「えっと、清涼寺と野宮神社と……」 他愛ない話をする。友雅があいづちをうつ。 あかねはこれを幸せだと思った。これ以上は望めない。これ以上を望むのは、遠くない未来に必ずやってくる別れを、必要以上に辛くすることだ。 ちくりと心が痛くなった。 「えっ!?」 突然空が明るくなって、一瞬で闇に戻った。 そしてしばらくの後、遠くでゴロゴロという音が鳴った。雷が来ているようだ。 それを裏付けるかのように、ぽつりぽつりと雨も降り出す。先ほどまで聞こえていた虫の音がぴたりとやんだ。 「やれやれ、鳴神のお出ましか……」 鳴神が現れると参内しなくてはならない友雅は嘆息した。 再び光がはしって、あかねがわっと声をあげる。数秒後に爆音。 「天帝の怒りも深いらしい。……神子殿は、鳴神はお嫌かな?」 「え、お怒り……? わわっ!」 音は怖くないが、落ち着きなくチカチカ光る空が苦手だった。普段ならわりと平然としているのだが、四方とも壁のない釣殿では、今にも直撃しそうな気がして不安だった。 寝殿に戻ろうかどうしようか悩むあかねを、ふいに友雅が抱き寄せた。 あかねと似ている、しかし少しだけ違う侍従の香が、ごく近くなる。 「とととと友雅さんっ!?」 「天帝がお怒りなのは、神子殿に対してではないと思うから、そう固くならなくていいよ」 「そそそそうじゃなくって……っ!」 強張ったように体が動かないのは、友雅のせいなのだが……。 それに気づいているのかいないのか、友雅はくすくす笑いながら囁いた。 「鳴神に怯える龍神の姫君を守るのも、八葉の務め。そうだろう?」 「務めって……」 「稀なる存在をお守りしているのなら、参内が遅れても仕方がないということになるだろうねぇ。主上の傍にいる近衛は私だけではないし」 どうやらあかねをダシに、参内を遅らせる気らしい。ちょっと複雑だが、そういうことならとあかねは少し落ち着いた。 それでも早鐘がやまないのは変わらない。 すぐ目の前に友雅の喉元があって、自分は胸板に頬を寄せていて、その自分を包み込んでいるのは友雅の直衣。 雷の光も音も忘れて、今自分が感じているのは友雅だけだった。 「……ともまささん……」 「うん? どうしたのかな、神子殿?」 「えっ、あっ、なんでもないですっ」 心の中でつぶやいたつもりだったのに、友雅からあいづちが返ってきたのであかねは驚いた。 先程とは違った種の鼓動とともに、冷や汗がでる。 自分はなにを呟こうと思っていたのだろう。それまで口に出さないで本当によかった。 「わっ、私、もう帰りますね」 激しい動悸にどうにかなってしまいそうで、あかねは慌てて友雅から体を放した。 「それでは室までお送りしよう」 「いいいいい、いいです。ひとりで帰れますっ」 「そう?」 あかねは辞退した。 一緒にいられる時間が減るのは嫌なのだけれど、今の状態で友雅に送ってもらっては、室に着くまでに力尽きる。 今以上にまぬけな姿をさらして、呆れられるのも困る。 寂しさに心が鈍く痛んだけれど、あえて無視してあかねは立ち上がった。 しかし、立ち上がったと思った瞬間、腕を引っ張られてバランスを崩した。 「わっ!」 気づくと、目の前には再び友雅の胸元。 「今宵は楽しかったよ。君が送りを望まないなら、私は葛城となって去る事にする。参内しなければならないしね」 「えっ、かつら……ぎ?」 友雅はあかねの耳元で囁き、最後に流し目を送った。 しゃがみこんだあかねとは反対に、颯爽と立ち上がりながら付け足す。 「意味がわからないなら、今度教えてあげよう。……そうだな、明日は私を共に選んでくれるかい?」 薄闇の中であかねがこくりと頷くのを見とめて、友雅は満足そうに微笑む。 ではね。そう言葉を残して友雅はあかねに背を向けた。 そして釣殿には、立ち上がる事ができずにへたりこむあかねが一人──。 「まいったね」 内裏へ向かう牛車の中で、友雅は呟いた。 牛車の中には小さく灯篭が灯っているが、ときどき雷光が昼間のように照らしていく。 「この想いは、どこまでのものなのかな?」 そう呟いて、自分の手を見た。 この手はさきほど、不安そうに眉根をよせるあかねを抱き寄せて、抱きしめた手だ。 まさか、この自分が? ありえない。異世界からやってきた唐猫のごときとはいえ、あのような少女に。 しかし、あかねが声をかけてくるのを、待っていた自分。あかねの忍んでくるかすかな足音を聞きとめ、期待をしていた自分。 決して不快ではない心痛むものが、友雅の中にはある。 「……だが……」 あの少女は異世界の住人。 空にとどろく雷鳴のごとく、友雅の心に鳴り響いても、いつかは去ってしまうものだから。 「ならばいっそ、戯れの遊戯をしようか」 戯れの逢瀬と戯れの睦言で、偽りの時間を過ごすのも悪くない。 そう、いつものように。 |
〜あとがき〜 なんだこりゃ(笑) 私が書く話はいつも「なんだこりゃ」な話ですが、今回は輪をかけて「なんだこりゃ」な気がします。でもまぁ別によいのです。話の雰囲気は好きだから。……たとえ、最初に考えていたネタを入れられなくなっても(涙) 作中雷が襲ってきたとき、びっくりにも現実空間で雷が鳴りました。私、呼んだっけ?(笑) |
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