月氷菓
如月の月夜は、うっすらと雲がかかった、朧月だった。 天上を吹く風が雲を押して、満ちる直前の月を覆い、また取り払っていく。 橘邸の簀子縁で、友雅とあかねが楽しそうに語らっていた。 「もうちょっといかがですか? 友雅さん」 「もらうよ。……ああ、ありがとう」 ゆっくりと提子を傾けるあかねの様子を眺めながら、友雅は微笑んだ。 なみなみと注がれた酒に口をつけようとして、ふと気が付いたように顔をあげる。 「? どうかしました?」 不思議そうに首をかしげて、あかねは友雅に聞く。 「水面(みなも)に月の光が映ったものでね」 そう艶やかに笑む友雅に誘われて、あかねも夜空を仰いだ。 待宵の月が、ちょうど雲の絶え間から顔をのぞかせている。 「桃源郷の月の姫と一緒に、この世の月を眺めているとは……。ずいぶんと贅沢な幸せだね」 月の光を浴びて空を見上げるあかねを眺め、友雅は目を細めた。 その桃源郷の月の姫が、怒ったような顔で振り返る。 「それ、やめてくださいよ」 「それとは?」 「その、桃源郷の月の姫っていうの」 怒っているように見えるのは、その実照れの裏返し。なによりうっすら染まった頬が、あかねの戸惑いを伝えていた。 「嫌かい?」 少し意地悪げな顔をして、友雅が笑む。 案の定あかねは、もごもごと口ごもった。 「いやって言うか……い、いやじゃないですけど……。でも、恥ずかしいから……」 自分は美人ではないから、そんなご大層な愛称で呼ばれると、果てしなく照れてしまう。それは決して不快な感情ではないが、ものすごくくすぐったい。 「そうは言ってもねぇ、私のかぐや姫? 君が傍らにいることは、この上ないほど幸せな時間なのだよ。私は長い夢を見ているのだろうかと思ってしまうくらいに、ね」 惜しげも無い賛辞に、あかねはますます頬を染めた。 「……そんなこと言って、私が赤くなるのを楽しんでるんじゃないですか?」 少しむくれて、上目使いにあかねはにらむ。 友雅は「心外だな」という風に肩をすくめて見せ、くすくすと笑った。 笑う友雅に、むくれているのが段々バカらしくなり、あかねも笑いだす。 他愛ない言葉のやりとりが、こんなに楽しいなんて。自分の方こそ夢の中にいるようだと、あかねは思った。 「明日は晴れるのだろうか?」 雲がだんだんと晴れてきたのを見て、友雅が言った。 「あ、ホント。まだ寒いから、嬉しいですね」 「そうだね。明日は望月だし、晴れたらまた、一緒に月見酒をしようか」 「えっ? 明日って満月なんですか!?」 頷きかけたあかねは、しかし驚きの表情で顔をあげた。 確かに天上にある月は満るときを待っているかのようであったが、一日の満ち欠けの差異はあまりよく見分けられない。確かに欠けてはいるので、上弦の月であるとは思っていたが。 「ああ、暦では確か、そうなっていたはずだよ?」 突然の様子に友雅も驚いて、唖然とした口調で答える。 あかねはさぁっと顔を青ざめさせて、友雅を振り返る。 「と、友雅さん、満月の日ってたしか、十五日……でしたよね?」 「そ、そうだけど……?」 友雅の肯定に、あかねは絶望した気持ちになった。 暦は如月。現代風に言うと2月。……とどのつまり、今日は十四日で……。 「……バレンタインデー……」 カレンダーがないから。旧暦は詳しくないから。──そんな言い訳は不要だ。 (そんな〜) 友雅の邸に迎え入れられて初めてのバレンタインだから、何か友雅にプレゼントしたかったのに。 こんな夜更けでは、なにも用意する事ができない。 「ばれんたいんでー……。たしか、君の世界の催しだったね。今日なのかい?」 あかねの様子に目を白黒させながら、友雅が言う。 なぜ自分の世界のイベントを知っているのか──以前あかね自身が教えた事を、すっかり忘れていたのだが──。あかねは絶望に拍車をかけた。 「あかね? 大丈夫かい?」 青ざめているあかねに、友雅が心配そうに問う。 あかねはなんとか微笑みを浮べ、頷いてみせた。 「だ、大丈夫です。すみません、いきなり取り乱したりして……」 「それはいいのだけど……」 なんだかちょっとフラフラしているし、本当に大丈夫だろうか。 友雅は形のよい眉を寄せて、あかねを支えるように抱きせた。 包まれるぬくもりにほんの少し落ち着きを取り戻しながら、あかねは必死に考えをめぐらす。 (明日市に行ってプレゼント見つけてくる? でも明日はバレンタインじゃないし〜) この世界には元の世界のような習慣がないのだから、チョコレート会社の戦略にのることはないのだが、しかし今までの価値観に見切りをつけて割り切るには、ちょっと難しい行事だ。 あかねの考えに気づいているのかいないのか、友雅が声をかけた。 「確か、私が贈り物をする日……だったかな?」 「えっ? ち、違いますよ。それはホワイトデーで、来月なんです。バレンタインデーは、私があげる……」 あげる方、と言いかけて、あかねは墓穴を掘ったのを感じた。 うまく誤魔化せば、気を取り直して違う日に贈り物をできたかもしれないのに。 友雅が勘違いして覚えていたのは、あかねにとって不運としか言いようがなかった。 (あ〜私のバカ〜) うなだれていると、友雅の手が、そっとあかねの頬に添えられた。 温かい手に促されるようにして、あかねが顔をあげる。 「君が私に贈り物をくれる日。……でもその様子だと、今気付いたようだね。もしや、それを気に病んでいるのかい?」 優しい瞳で見つめられて、あかねは顔を、泣きそうに歪ませる。 「……ごめんなさい」 「謝る必要などどこにもないよ。私には、君が傍にいる日々こそが贈り物だ。私は身に余るほどの幸せを、君からもらっているのだから」 「でも……」 「ふふっ、優しい君のことだから、そう言っても気になってしまうかな。ならば、一緒にこれからできる事を考えるのはどうかい?」 「えっ?」 友雅からもたらされた提案に、あかねが目をぱちくりさせる。 「君の口付け。君の愛の言霊。君のぬくもり。身に余る幸せを受けてなお、私が欲しいと思うものはたくさんあるのだよ」 そう言って片目をつむってみせる友雅に、あかねはくすくす笑い出した。 悩みと後悔の雲が頭から晴れていく。 笑顔を取り戻して、あかねは答えた。 「でも、好きですって言葉は贈り物と一緒に渡すものだから、代わりにはなりませんよ」 あかねが笑ったのを見て、友雅も目元をなごませる。 「そうなの? 言の葉と贈り物を一度にもらえるなど、男にとってずいぶんと嬉しい催しなのだね」 「あ、でも、片思いの場合は、贈り物だけだったりもしますけど。好きって言いたくても言えない子は、贈り物に想いを託すんです」 「そうなの。ばれんたいんでーの事、詳しく聞かせてくれるかい? どうも私の知識では、考えに足りないようだからね」 話すのも、楽しいかもしれない。 友雅にまた助けてもらったなぁと思いながらも、あかねは目を輝かせてうなずいた。 「はいっ!」 「……贈り物を贈る日ではなかったのだね」 「いえ、贈り物をする人もいますよ。でも、チョコレートっていう、甘いお菓子をあげるのが、バレンタインなんです。私もよく、小さい頃にチョコ作ったな〜」 「…………その手ずから作ったものを、あかねは誰にあげたの?」 ほんの少しむっとした声で、友雅が問う。 妬きもちをやいているらしい友雅に、あかねがぷっと吹き出した。 「お父さんとかですよ。天真君たちにあげた時もあったけど、……今は、友雅さんだけです」 照れながらもはっきり言われた台詞に、我に返った友雅が大人気なかったと笑う。 「嬉しいね。それで、どんなものを作ったの?」 「え〜っと、ハート型のくりぬきチョコとか〜。あ、チョコレートケーキを焼いたこともあったな〜」 「はーととは何だい?」 「ハートはですね〜、形をあらわす名前なんです。好きだって想いを、あらわしているんですよ。こんな……」 あかねは床に指でハート型を描いた。 しかし、そんな形を見たことのなかった友雅は、首を傾げる。 筆と紙を持ってきて描こうかと思ったあかねは、しかしすぐ近くに形作れるものを発見して、手を伸ばした。 簀子の先に植えてある木から、雪を引き寄せ、粘土をつかうようにハートを作る。 ちょっと冷たかったけれど、思ったより綺麗なハート型を作る事ができた。 「はい。こんな形です」 両手でかかげてにこりと笑って見せると、友雅はあかねの手を包み込み、小さな雪の結晶を口に含んだ。 「君の心は私がいただいたよ」 艶やかに笑んで見せ、友雅は雪を飲み下した。 それを見た瞬間、あかねの顔が音を立てそうなほど瞬時に真っ赤に染まる。 「ふふっ、冷たいけれど、心が温かくなる気がするね」 「……もぅ!」 チョコレートを食べられるより、恥ずかしいかもしれない。 恥ずかしさにぷぃっと顔を背けるあかねの手が赤くなっているのを見て、友雅はそれを引き寄せる。 「あっ……!」 あかねが驚いて振り向く。 雪で冷たくなった手を頬にあてさせ、友雅はあかねを見つめた。 「君の心という、この上ない贈り物の、礼を」 そのまま友雅は唇を近づけ、あかねの唇に触れた。 それは一瞬冷たく、しかしすぐに熱い口付けへと変わっていった。 |
〜 あとがき 〜 タイトルは「げっひょうか(月氷菓)」と読んでください。造語です。 夜中に書いたラブレターほど恥ずかしいものはないと言いますが、夜中に書いたラブストーリーも、やっぱり恥ずかしいバカップルって感じですね。書いた以上は展示したいと思うのですが、あんまり遅くない時間に推敲すると、「私はこの時、何を思ってこの文を書いたのだろう……」と本気で頭を抱えたくなることも……。 こんな私ですが、よかったらまた読んでやってください(笑) |
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