夏の夜の夢

 熊野は今、夏の盛り。
 湊町・勝浦の夜は、虫の声より波の音が響く。
 その音を遠くに聞きながら、望美は大きくのびをした。
「ん〜、疲れた〜」
 歩きづめの足が重い。
 しかし、湯を使ってさっぱりした後なので、それも少し心地よかった。
 まだ濡れている髪を宿で借りた布でぬぐう。
 その時、庭の方角で物音が聞こえたような気がした。
「…………なんだろ?」
 ノラ猫でもいるのかと、庭に面した戸を開ける。
 だがそこには誰もいなかった。
「気のせい、かな? ……誰かいるの?」
 とりあえず、庭に向かって声をかけてみた。だがその声に反応するものはいない。
 気のせいかと戸を閉めかけた時、再びガサリと木々が揺れる音がして、望美の目の前に人影が落ちてきた。
「残念。オレの方が先に声をかけようと思ってたのにね」
 軽い身のこなしで着地した人物はヒノエ。
「ヒノエくん!」
「こんばんわ姫君。あんたに逢いたくて、望月の夜だが忍んできたよ」
 服についた木の葉を風に流しながら、ヒノエが言う。
 突然の登場に驚いた望美は驚きの声をあげた。
「びっくりした〜。こんな時間にどうしたの? あ、急用とか?」
「こんな時間だから、忍んできたんだろ? それに、いちいち用がないと逢いにきちゃいけないわけ?」
 こころなしか赤面する望美に、ヒノエは不適に笑いかける。
「そんな事はないけど……」
「それと『姫君に逢いたかったから』っていうのは、忍んできた理由にならない?」
「えっ? あの……ヒ、ヒノエくん?」
 異性からこのような言葉をもらったことのない望美は、当然のごとくうろたえる。
 それを楽しそうに笑いながら、ヒノエは簀子に腰をおろした。
「こっちへおいでよ。今夜は月が綺麗だ。……雲ひとつない月もいいけれど、望月の夜は薄雲が少しかかっているくらいの方がいいと思わないかい?」
 ヒノエに促され、まだまごまごしていた望美は恐る恐るといった風にヒノエの隣に座った。
「勝浦は……熊野はいい所だろ?」
 雲隠れしなかった望美に、ヒノエは拒否されていないと判断し、話しかけた。
「うん! 綺麗な景色がたくさんあるし、食べ物はおいしいし、みんな親切だし、すっごいいい所!」
 案の定望美はすぐに笑顔を見せた。ただ単に、突然の夜の訪問に驚いていただけのようだ。
 そんな風に無防備だと、ますますちょっかいかけたくなるんだけどね。そう心の中で思いつつも、隣に座る望美にただ流し目をおくる。
「それはよかった。姫君のお目がねにかなうのなら、オレも嬉しいね」
「もう……また姫君って言った……」
「姫君は姫君だろ、龍神の神子姫様? それとも、望美姫と呼ばれるのがお望みかい?」
「私はお姫様じゃないよ〜。そんなガラじゃないし、照れちゃうから……」
「ふふっ、可愛いね、望美は」
 ますます顔を赤くする望美の耳元に近づいて、ヒノエは囁きかけた。
 急に近くに聞こえた声に、望美は耳を押さえてのけ反る。
 だがヒノエはそれを逃さずに、望美の腕をつかんで引き寄せた。軽い衝撃とともに望美が胸によりかかる。
「ひ! ヒノエくん!」
「静かにしなよ。せっかくの逢瀬を、誰かに邪魔されたくはないだろ?」
「おっ、逢瀬って……っ」
「違うのかい? 少なくともオレはそのつもりだけど?」
 起き上がりたくても、ヒノエの手が肩にかかっていて起き上がらせてくれない。
 ヒノエの胸板を頬に感じながら、望美はなんとか逃れようとジタバタした。
「わわ私まだ髪の毛濡れてるから、ヒノエくんも濡れちゃうよ……」
「ん? 本当だ。ふふっ、いいね、濡れた髪も……」
 だがヒノエは、放すどころか望美の髪を一房すくいとり、口付けを落とす。
 その様子を間近で見せ付けられ、望美の思考はますます沸騰した。
「ヒヒヒヒヒノエくんっ!!」
「これくらいで降参なわけないよな?」
 くすくす笑いながら言うと、膨れ面をした望美と目が合った。
 どこまでも澄んだ、穢れない瞳。深い海のような。
 だがその瞳は怒っている。いや、怒ってみせていると言った方が正しいか。自分が仕掛けている悪戯に、戸惑い、拗ねている感じだ。
「もう! どうせ他の女の人にも、そういうこと言うんでしょ!」
「妬けるかい?」
「バカっ!」
 唇を尖らせて罵倒する望美に、少しやりすぎたかなと思う。
 だがヒノエとしては、もう少し仕掛けてもいいくらいだ。それだけ望美と過ごす時間は楽しく、心地がいい。
「……ま、今日のところは退散しようか」
 逢瀬は名残惜しいくらいが丁度いい。そうつぶやいて、ヒノエはようやく望美を解放した。
 放してもらった望美は、ほっとしたように乱れ髪を整える。
「もう! 私をからかって遊ぶの、やめてねっ?」
 その様子があまりにもほっとしたようだったので、ヒノエは何かに突き動かされるようにして、背後から望美を抱きしめた。
「!? ヒ、ヒノエくん!」
 まったく、言ったそばから!
 驚きと抗議の入り交じった声でヒノエをにらむと、はっと息を飲むほど真っすぐな視線にぶつかった。
「からかいじゃない。そう言ったら?」
 後ろから抱きしめられる態勢で、自分を見下ろすヒノエ。
 今の月夜みたいなヒノエの声に、望美の心臓がどくんとはねた。
「……脈あり……かな?」
 そのまま時が止まってしまうのではないかと思えた瞬間、ヒノエがふっと笑ってつぶやいた。
 そのまま望美の額に素早く口付けると、名残惜しげに顎のラインをひと撫でして離れる。
 望美が照れと怒りに口をぱくぱくさせている間に、ヒノエは片目をつむって背を向けた。
「じゃあな、望美。今夜はオレの夢を見なよ」
 軽く手をあげて、ヒノエは風のように消え去った。
 あとに残されたのは、行き場のない興奮を抱えた望美。
 穏やかに波の音が響く夜闇に、望美は叫んだ。
「ヒノエくんのバカー!」
 その言葉にヒノエがどのような表情をしたか。それは当人しか知らない。

 

〜あとがき〜
 ナニをやるにしてもライトなヒノエは、実は友雅さんよりお話を書きやすかったりします(笑)
 しょせん私は、あの方の話を書くにはヘタレ過ぎるのだ。
 タイトルも、何にしようか迷って〜、結局これになりました。よく見かけますけどね、曲の名前でもあるし。
 舞台も夏の熊野で、季節はずれもはなはだしいですが、ちょいと目をつむってくださると嬉しいです、ハイ。

BACK

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送