空と風と

 彼の妻──望美は空が好きらしい。
 ヒノエが知るかぎり、出会ったころから望美はよく空を見上げていた。
 そして、今もそう。
 簀子に座った望美は、手に持った縫い物の針を止め、穏やかに空を眺めている。
 その瞳の色は嬉しさと憧れをまとう。その瞳をヒノエはよく知っていた。
(妬けるね、オレを見つめるのと同じ瞳で、空を見上げているなんてね)
 空などというものに嫉妬するなど、自分はどうにかしていると思うけれど。
 心のなかで自分に苦笑いを向けながら、ヒノエは気配を消して望美に近づいた。
 そうして天と望美の間に、顔を出す。
「何を見てるんだい、姫君?」
「わっ!?」
 突然現われたヒノエの顔に、望美はびっくりして仰け反る。
 そのまま素直に倒れればよかったのだが、ヒノエにぶつかってしまうととっさに身を捻ったおかげで、望美は頭をしこたま床に打ち付けてしまった。
 ゴンっ、とにぶい音がする。
「つっ〜〜〜!?」
「おいおい、大丈夫か? まったく、そのままオレに向かって倒れてくれば、優しく受けとめてやったのにさ」
 苦笑いを浮かべながらヒノエは望美の傍らに屈みこむ。
 望美は目に涙を溜めながら、だって、と呟いた。
「ヒノエくん、いきなり現われるんだもん! いつもびっくりさせられちゃう!」
「ふふっ、忍んでいくのは得意だからね」
 このことを言うたび、ヒノエは同じ答えを返してくる。
 望美は上目遣いにヒノエを睨んでみせながら言った。
「その得意な忍び足で、何か変なことしてないでしょうね?」
 その表情の中には、少しのヤキモチがまじっていた。
 嫉妬を素直にぶつけてくる所は、望美の可愛いところの一つだとヒノエは思う。
 それを少しからかってみたくて、ヒノエは質問に質問で返した。
「へぇ、変なことって?」
「たっ、例えばっ、他の女の人のところへ……行ったりとか……」
 頬杖をつくヒノエに覗き込まれて、望美は頬を染めながら言う。
「他の女、ねぇ……」
 そんな簡単なことを、いちいち言わせたいのが女心というやつだろうか。もうずっと、ヒノエの心の中には望美しかいないというのに。
 ヒノエは望美の顎に手を添え、真正面から視線を絡めとった。
「わからない? オレが女だと思っているのは望美、お前だけだぜ? 言ったろ、オレはお前を選ぶ、とね」
「な、ならよろしい……」
 尊大に許す望美。そんな振りまでして見せる彼女は、まるでなにかに溺れないよう、あがいているかのようだ。
 そんな望美を、ヒノエは自分に溺れさせたいとつねづね思っていた。
 でも自分も望美に溺れている。余裕があるのを見せ付けるように、溺れてない振りをするけれど、本当は自分は、とうの昔に望美にやられちまってる。
 この甘く危険な駆け引きは、生涯終わることはないだろう。
 望美に向かってヒノエはにやりと笑んだ。
「わかっていただけたようで何より」
 冗談めかしたように言いながら、ヒノエは望美に口付ける。
 この口付けも、望美だけのもの。
 いまだかつて、他の誰ともこのような口付けをしたことがない。脳内から浸食されているかのように、突き動かされて相手を求める口付け。
 何度も求めて唇を離すと、混ざりあった唾液が銀の糸を引く。
 望美の口端にこぼれた雫をぺろりと舐めとって、ようやくヒノエは顎を捉まえていた手を放した。
 望美は少し潤んだ瞳で自分を見ている。空を見ていた瞳と同じだ。
 ぼぅとしていた意識が少しづつ浮上するのに合わせて、望美は恥ずかしそうに、しかし朝露に濡れた花がほころぶように微笑んだのだった。
「そうそう、その笑顔が見たかったのさ。お前には笑顔が似合うからね」
「…………もぅ……」
 照れながらも、望美は笑顔を浮かべたままでいてくれる。そしてその傍らにいるのは自分。とても幸せな時間。
「で、何を見てたんだい?」
「えっ?」
「さっき空を見ていたろう? あんな風に愛しおしそうな瞳で空を見上げているなんて、妬けるね」
「えっ? えぇっ?」
 流し目を向けるヒノエに、望美は驚いたようだ。どうせ、自分はどんな顔して空を見ていたんだとか、考えているに違いないけど。
「え〜っとね、トンビを見てたんだ」
「……トンビ?」
 なんでまたトンビなんかを……という風に、ヒノエは空を見上げた。
 青い空と白い雲。その見事な晴れ空には、なるほど、トンビが高くに飛んでいた。
「うん。あんな風に空を飛べたら、気持ちイイだろうな〜って」
「ふぅん」
 空を飛びたいなどと、望美はおもしろい事を考えるものだ。ヒノエはそう思った。
 しかし彼女の世界には空飛ぶ船があるらしく、これは価値観の違いなのだろうか?
 興味深げに話を聞いているヒノエに、望美は照れるようにはにかみながら、幼き夢を打ち明けた。
「ほんとは私ね、小さい頃、天使になりたかったんだ」
「天子?」
 違うものを浮かべているらしいヒノエに、望美は紙と筆をもってきて絵に描く。
 あまり上手い絵ではないけど、ヒノエには伝わったようだ。
「あっ、でも空想上の生きものでね、ほんとにいるわけじゃないよ。でも物語とかに出てきて、私はよくいいなぁと思ってたっけ……」
 と、望美は懐かしむように目を細めた。
「それで?」
「えっ?」
「それで姫君は、まだその天使とやらに憧れてるのかい?」
 頬杖をついたヒノエが、自分の顔をのぞきこみながら聞いてくる。
 望美はくすくす笑いながら答えた。
「いくら私でも、そこまで子供じゃないよ〜。あ、でも、空高く飛んで地上を見下ろしたり、風をきって飛ぶのは気持ち良さそうだなとは思うけどね」
「天使みたいに羽があったら?」
「うん、そう」
 彼方まで見つめるように、望美は空を見上げた。
 ヒノエには望美がそのまま羽を広げて飛び立っていってしまいそうに思え、とっさに望美を引き寄せていた。
 細い腰に片手を回し、もう一つの手は望美の手に絡める。
 突然の抱擁に、望美が困惑したようにヒノエを振り返った。
「ど、どうしたの?」
「いらないさ、天使の羽なんて」
「ヒノエ……くん?」
「高みから見下ろしたいなら、熊野を一望できるとっておきの場所に案内してやるよ。風をきりたいなら、オレの一番足の速い船に乗せてやる」
 口調は軽やかだがどことなく真摯な声で、ヒノエは望美に囁いた。
「だから、どこかに飛んでいきたいだなんて思わないで、オレの傍にいなよ」
 オレの負けかな。ヒノエは内心笑った。
 溺れさせたいと思っても、もっと何倍も溺れてる。
 どこにも行きたくなくなるようにする前に、どこにも行かないでくれと懇願するしかないくらい。
 驚いたような顔して、望美が自分を見上げてくる。きっと自分は、心底情けないような顔をしてるんだろうな。
「だいたい背中に羽なんかあったら、邪魔でしょうがないぜ? 仰向けに寝転んで星を眺めることも、今みたいに、後ろから抱きしめることもね」
 そこまで言ったとき、ようやく望美が口を開いた。
 そしてヒノエは、こぼれ出た台詞に二度驚かされることになる。
「そっか。じゃあ諦める」
「……いいのか?」
 あまりにあっさり諦めたので、ヒノエは拍子抜けした。
 望美はそんなヒノエにほほ笑みかけて、
「うん。ヒノエくんと一緒に空を飛べたら気持ちイイだろうな〜と思ったんだけど、こうやって抱きしめてもらえなくなるのはイヤだから、諦めることにする」
 ホントは普通に抱きしめられるより、後ろから抱いててもらう方が安心するんだ。などと望美は笑った。
 なんだって? オレと一緒に?
 驚き二度目。ヒノエは望美の言葉に、本気で敵わないと思った。
 自分は引き止めるだけで精一杯だったのに、望美の方はハナから自分も連れていく気でいたなんて。
 だんだん愉快な気持ちになってきて、ヒノエはくっくっくっと忍び笑いをもらし始めた。それも堪えきらずに笑う。
「ど、どうしたの!?」
 いきなり笑いだした夫を、望美はおろおろと見上げた。
 ヒノエはいや、と望美に応え、いつもの不適な笑みをたたえて耳元で囁く。
「じゃ、諦めてくれたお礼に、近いうちに足の速い船で、海っていう空を飛ぶのはどうだい?」
「ほんと!? 行きたい!」
 とたんに目を輝かせる望美にさっと口付けて、ヒノエは片目をつむって見せた。
「了解。近いうちに飛び立たせてやるよ。楽しみにしてな、オレの天使様」
 そう、二人で飛ぶために。

 

〜あとがき〜
 この時代、熊野の船ってかなりいい性能だったらしっすね。速い船で風をきるのは、さぞ気持ちがいいだろうと思います。
 風をきるのは好きだけども高所恐怖症の自分は、だったら船に乗りたいと思うのです。いいなぁ、望美さんは、ダンナが船乗りで。車で高速飛ばすのも好きですが、自分は免許持ってないので、唐突にドライブに連れてってくれるようなアッシー君(死語)が欲しいとも思うのです。

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