夜の帳は薄様
明日、帰る──。 室の中で、望美は独り、ひざを抱えて座っていた。 高灯台が一つ灯るのみの室は、部屋の隅々までは照らしてくれない。 この室は望美が、初めてここに来たときから今日まで、ずっと使っていた室だ。 この部屋で寝るのも、今日が最後。 そう思うとなんだか横になる気がおきなくて、夜着にも着替えずずっと座り込んでいた。 さっきまで送別会と称したドンちゃん騒ぎをしていたのに、疲れていないわけではないのに、それでもじっと、座っていた。 コツコツ。 そんな音がして、望美は戸を振り返った。 気のせいかなと思って耳をすませていると、もう一度叩かれる。 「──ハイ?」 「オレだよ」 ヒノエの声だった。 望美は立ち上がって、少しだけ戸を開けた。 「春といってもまだ寒いからさ、寝る前にお前と一杯やろうと思って」 いつもと変わらない調子のヒノエ。その手に持っている二つの提子を掲げてみる。そこには酒が並々と入れられていた。 「さっきまであんなに飲んでたのに、まだ飲むの?」 「あれくらい余裕だね」 「で、でも私お酒は……」 「大丈夫、望美が飲めるくらいのも持ってきたから」 なるほど、提子が二つあるのは、そういう意味か。 それにしても、この普段と変わらない様子のヒノエはどうしたものか。あまりにも普段通り……。そう、普段と変わらな過ぎるのだ。望美は明日、元いた世界に帰るというのに──。 「あの……えっと……」 どう反応したものか。はかりかねて、望美はまごつく。 「ここ、夜風が通って寒いんだよね。中へ入れてよ」 やっぱり普段と変わらない態度で、ヒノエが言う。 そして望美が反応しないでいるうちに、わずかにしか開いていない戸の隙間から、猫のように滑り込んできた。 「あっ!」 ヒノエは望美にお構いなしに室に入り、望美が座っていたところに自分の分の円座を持ってきて座った。 戸口に立ったままの望美を、提子を床に置いたりしながらヒノエが呼ぶ。 「何してんだい姫君? 早くおいで」 ヒノエは本当に変わらない。初めて会った時も決戦の最中も今も、基本はいつも変わらない。 変わらないから望美は困ってしまうのに、それでもヒノエは変わらないのだ。 清盛を倒した後、望美はヒノエに、熊野に来いと誘われた。 あんな風に情熱的に誘われたのは初めてで、ヒノエの真摯な瞳に思わず頷きそうになってしまったけれど、でも望美は否を唱えた。 自分の世界はここではないから。 両親や友達を、捨てる事はできないから。 適う事ならずっとヒノエと、一緒にいたいのだけど──。 首を振った後、ヒノエは一度だけ切なそうな笑顔を浮かべ、それから普段通りに戻った。 今にも泣き出しそうな望美に、気にするなと笑って。 「──み、望美、どうした?」 「えっ……」 過去を思い出していたせいでぼけっとしていたらしい。望美はヒノエの声で我に返った。 と、思ったら、すごく目の前にヒノエの顔。額どうしがくっつきそうな場所に。 「ぎゃー!!」 慌てて仰け反りながら、手でヒノエの体を押し返す。 突き飛ばされたヒノエは、しかし可笑しそうに笑った。 「ぎゃーはないんじゃないのかい、姫君?」 確かに、いくらなんでも「ぎゃー」はないだろう。せめて「きゃー」くらいにしておけば……。 「って、そんな話じゃなくて!!」 「なら、どんな話だい? オレが話しているのに心ここにあらずで、他の男の事を考えていたりしてないだろうね?」 再び望美の顔をのぞき込みながら、ヒノエは言う。 ほら。また……。 ヒノエがこういう風だから、望美は困ってしまうのだ。 まるであの一件がなかったように振舞うヒノエ。どう接していいのかわからない。 知らず泣き笑いの表情になってしまった望美に、ヒノエが苦笑する。 「まいったね。そんな顔が見たいわけじゃないんだけどね」 「っ……」 望美はヒノエの視線から逃れるように、顔を背けた。 「……あの事を、まだ気にしているのかい?」 「だってっ!」 「お前が気にすることじゃない。……そう言ったよな、オレは?」 「だって……」 二度目のだっては、とても力ないものだった。 ため息をついて、ヒノエは盃をあおる。 微妙な沈黙が、二人の間に流れた。 「……ヒノエくんは、どうして来たの?」 「ん?」 「どうして、今日、来たの?」 どうしてもなにも……。ヒノエは笑った。 「姫君の花の笑顔を拝みにきたんだよ。言ったろ? お前の一つひとつを覚えておきたいって」 なのにお前は笑ってくれない。あれ以来ずっと。 「オレと過ごすのは、苦痛かい?」 「く、苦痛なんかじゃ……」 「なら、どうして笑ってくれないんだ?」 「………………」 「オレの手を取らなかった自分には、そんな資格がないとでも思ってるんだろう?」 「……っ!」 図星だった。 一度だけとはいえ、あんなに悲しい笑顔を浮かべさせてしまった自分が、どうしてヒノエの隣で笑えよう? いつも通りなヒノエの隣は心地よすぎて、ともすれば笑顔を浮かべてしまいそうになる自分を叱咤して。 たとえヒノエの願いだとしても、もう、自分はヒノエの隣で笑えないと思って……。 じわりと染み出してきた涙を誤魔化すように、望美は提子から酒を注ぎ、盃をあおった。 「待て望美、それは……」 「ぐっ!?」 強烈に舌と喉を焼く酒。息がつまり、望美は咳き込んだ。 「まったく、大丈夫かい? ほら、これ飲みな」 そう言って差し出されたのは、望美用にヒノエが持ってきた方の酒。望美は先ほど間違えて、ヒノエが飲んでいる提子から酒を注いでしまったのだった。 望美用のも酒。しかしとてつもなく強い酒を飲んだ後では、白湯にも等しい味だった。 「ぐっ……ごほっ……ひ、ヒノエくん、いつもこんなの飲んでるの?」 「いつもって訳じゃないけどね」 望美の背中を優しく叩きながら、ヒノエは自嘲めいた笑みを浮かべる。 「ごほっ、ど、どうして……」 「そうだね、 萎えそうになる意気地を叱咤するため……かな」 「えっ?」 それはどういう意味か。聞き返そうとした瞬間、望美はヒノエに抱きしめられた。 「お前に、拒否されたらどうしよう。室に入れてくれても、笑顔を見せてくれなかったら。──そのまま別れてしまったら、どうしよう、とね」 このオレがだぜ? ヒノエは自分を嘲笑うように笑った。 「お前は明日、帰ってしまうんだろ?」 「……うん」 「何度思い返してみても、浮かぶのはお前が最後に見せた悲しい微笑みだけなんだ。オレが焦がれてやまない、あの花の笑顔が思い出せない。せめてお前が帰る前に、もう一度その笑顔が見たくて……」 「ヒノエくん……」 「お前が……好きなんだ。お前だけなんだ、本当に焦がれたのは。──頼むよ」 頼むから、笑ってくれ。 耳元で囁かれるヒノエの声に、望美は目を瞑った。そして笑おうとした。 しかしうまく笑えなくて、どうしても泣き笑いになってしまって、望美はついに涙を溢した。 「ごめ……っ」 うまく、笑えない。 ひっくひっくと嗚咽を堪える望美をいっそう強く抱きしめながら、ヒノエがぽつりと呟いた。 「……まずいな」 「えっ?」 「悪酔い……したかもな」 そう呟く声は苦しげで、今にも倒れてしまいそうな声に聞こえ、望美は慌ててヒノエの顔色を伺った。 真っ青だ。 あんなに強い酒を飲んでいながら、ヒノエの顔には一つも酔いが浮かんでいない。 「だ、大丈夫?」 ヒノエの腕が力なく落されたのに驚き、望美がヒノエの額に手を当てようとする。 「さわるな!」 ヒノエが俯いて叫んだので、望美はびくんと震えて静止した。 「ひ、ヒノエく……」 「オレに、さわるな望美」 俯いた髪の間から見える瞳は飢えた狼のよう。 望美はしばし、その瞳に圧倒され動けなかった。 「策士、策に溺れる、かな。こんな酒、飲むんじゃなかった」 暗く笑うヒノエを、望美は初めて見る。 こんなにも周囲に敵意を向けているのに、どこか寂しそうにしている瞳。 とがった牙を連想させる飢えた手が、望美に伸ばされる。 「……あ……」 顎を掴まれヒノエの唇が近づいてくるのを、望美はどこか冷静な目で見ていた。 自分の唇に触れるヒノエは、ひどく冷たい。 「んっ」 「……やばいぜ。オレはお前が欲しいと思ってる」 口付けと口付けの合間から、ヒノエがうめくように言う。 一番見たいものが手に入らないのならば、同じくらい焦がれている肌を、吐息を。 「お前を害するものから、一番近くで守りたいなんて言いながら、一番危険なヤツが傍にいたわけだ」 ククク……と笑うヒノエは、ゆっくりと望美を押し倒した。 視線を望美の瞳からはずさないまま、陣羽織の紐をするりと解く。 「どうする、お姫様? このままだと、狼に食べられてしまうよ?」 人を食ったような笑みはいつもと同じ。なのに、とても傷ついているような笑みだった。 圧し掛かってくるヒノエに、望美はなぜか腕を絡めた。 「望美?」 「……ヒノエくんになら、いい」 そう言って微笑む彼女は、彼が一番見たいと思っていた笑顔を浮かべていた。 信じられない事を聞いたという風なヒノエに、望美が笑ってみせる。 「ヒノエくんなら、いいよ」 そう言って望美は、背に回した腕以外の力を抜いた。 「い……いいって、オレが何をしようとしているのか、解って言ってるのか!?」 カッとなって、ヒノエが叫ぶ。 「オレは! お前を犯そうとしたんだぞ!!」 「そうして、ヒノエくんは傷つくんだよね」 「っ!!」 唇を噛締め、ヒノエが黙る。 噛締めた唇から、ほんの少し血が滲んだ 望美はヒノエに口付けて、その血を舐めとって囁いた。 「やめて、もう傷つけないで」 「……哀れみかよ」 「違うよ。本当にヒノエくんなら、抱かれてもいいって思ったんだよ」 もっと早くこうなりたかったのかもしれない。 未来に別れが待っているのに、これ以上好きになるのが恐かった。それが笑えなかった理由かもしれない。 笑って、当たり前のように傍にいたら、別れることができなくなる。 「本当は、私の方こそヒノエくんが欲しかったのかも」 今はヒノエの全てを記憶したいと思う。 「ヒノエくんが笑ってって言った気持ち、やっとわかったよ」 ごめんね。と望美は言った。 ヒノエは泣きそうな、笑いそうな、しかしどことなく穏やかそうな、複雑な表情をしていた。 「……取り消しは聞かないぜ、今の言葉」 後戻りはできない。痛みを堪えるような声で、ヒノエは言った。 「ヒノエくんこそ、後悔しないでね」 応える望美は、逆に挑戦的に言い放った。 ヒノエがふっと微笑む。 「まったく、叶わないね、姫君には!」 そうして二人は、久しぶりに心から笑いあったのだった。 ──夜の帳が、今、二人だけを包み込んでいく。 |
〜あとがき〜 こ、これで一応完結の話です。 書けるものならエロが書きたい。と思いつつも、なんだか妙に落ち着いてしまって、自分の中ではこういうお話として「書き途中フォルダ」から「完成フォルダ」に移っちゃったお話(爆) 読んでくださった方的には消化不良かも? と思いつつ、これもヒトツの水蓮ワールドということで発表してます。ホントすみません(滝汗) エロは……。……またエロが書けるようになったら、こっそり書いてアップするかもしれません。 |
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