初  雪

 それは空気の澄みわたる冬の朝。
 ヒノエを目覚めさせたのは、彼の愛する妻の、ちょっと──いやかなり焦った声だった。
「ヒノエくん! ヒノエくんってば!!」
「──ん、やぁ、おはよう、姫君」
「おはようじゃなくて〜!?」
 望美が何をそんなに焦っているのか皆目見当もつかないヒノエだが、朝一番に見れたのが妻の顔だった事に微笑みながら、その頬を引き寄せる。
 そのまま口付けて──なんて思っていたのに、望美はその腕から逃れて、パニクった状態でヒノエを揺さぶった。
「起きて〜! 起きてってば〜!! もう朝だよ! 遅刻しちゃうよ!?」
 その一言でヒノエはようやく合点がいった。
 普段は望美が寝ている間に起き出すヒノエ。なのに今日は、ぐっすり熟睡した自分よりも寝ている姿に驚いて、慌てて起こそうとしたんだろう。
 そういえば聞いた事があるな。望美の世界では朝の準備の時間が短く感じると。
 それで寝坊したと焦っているのか。
 面白いな、なんて思うと、意地悪なことにしばらく眺めていたいとか考えてしまうのだ。
 ヒノエは朝日に照らされた望美の顔を、眩しそうに微笑んで見上げる。
 だが望美はそんな情緒に気づかないほど焦っていた。
「ほら早く〜! 急いで着替えなきゃ!!」
 望美がヒノエの上掛けを引き剥がす。
 その下からは、夜着を寝乱れさせたヒノエの体躯が、悩ましげに現れた。
 冬の朝の冷気に体を撫でられ、ようやくヒノエは起き上がる。
「わぶっ!?」
 ──と思ったら、そのまま望美を引き寄せて、二人して茵(しとね)に倒れこんだ。
 ヒノエの以外と厚い胸板に激突して、望美がくぐもった悲鳴をあげる。ヒノエの香りが急に近くなって、望美は頬を上気させた。
 それを誤魔化すように、手を突っ張って上半身を起こす。
「もう! 早くしないとって起こしてあげたのに! 早くしないと執務が──」
「休み」
「えっ?」
 自分の言った言葉にきょとんとした望美に、ヒノエはにやりと笑ってもう一度言った。
「休みにしたんだよ、今日は。皆には昨日の夜に、そう通達してある」
 第一、執務があるのに寝ていたら、部下が起こしにくるって。
 紡がれた言葉をゆっくり頭に書き写すように理解すると、望美は湯気がたちそうな勢いで赤面した。私ったら、なんて早とちり……。
「ご、ごめんなさいっ」
「いや、いいよ。おかげで、姫君が必死にオレを起こすなんていう、可愛らしい姿が見られたんだからね」
「もう!!」
 望美は拗ねたようすで、ヒノエの胸にぼすっと顔をうずめた。照れたのを隠したかったのと、ずっと寒かったから、ヒノエのぬくもりが恋しくなったのだ。
 ヒノエは望美に、上掛けをかけてやった。ほんの少し震えていた体が止まり、望美は一息ついて恨み言を言った。
「なんで教えてくれなかったの? 昨日言ってくれてれば、こんな風に起こさなかったのに」
 はしたないみっともないブサイクなのもいい所だと、望美はブツブツと文句をたれ続ける。
「悪かったね。内緒にしておけば、驚きながらも喜んでくれると思ってさ」
「……そりゃ、ヒノエくんが先に起きていれば、素直に喜びましたけどね」
 恥ずかしいところを見られた望美は、意趣返しにずいぶん不貞腐れたことを言う。
 ヒノエはくすりと笑って、自分と望美の位置を入れかえた。組み敷かれてもそっぽむいて拗ねている望美の額に口付けを落す。
 その唇はだんだんと下に降りてきて、やがて紅梅のような望美の唇を求めはじめた。
 何度も口付けて離れれば、ちょっとご機嫌の治った望美が、瞳をうるませて自分を見上げている。
「お詫びの印に、いい情報を教えてやるよ。それで機嫌を治してくれないかい、姫君?」
「いい情報?」
 望美は小首をかしげてヒノエの言葉を待っている。
「実はね、オレが今日お前より寝ていたのは、夜中にずっと起きて、庭を見ていたからなんだよね」
「え?」
 独りで月見酒でもしていたのだろうか? そんな不思議そうな望美に、ヒノエは悪戯っぽく瞳を細めた。
「……相模」
 先を期待している望美に勿体つけるかのように、ヒノエは控えているはずの女房の名を呼んだ。
 初老の女房──相模は、ヒノエの意を汲み取って、音も無く御簾を巻き上げていく。

 その先にあるのは、眩しいくらいに乱舞する光──。

「熊野に来て、初めて見るよな?」
 ますます笑みを深くしてヒノエ。その声は空間に広がるように響く。
 望美は御簾の外の世界に釘付けになった。
「……雪……」
 外には、一面の銀世界。
 冬の澄んだ空気と日の光、そして新雪が幻想的なプリズムを作り出していた。
「キレイ……」
「昨日の夜から降っていてね。なら今日は一日、お前と初雪を見て過ごそうと思ったのさ」
 どう、許してくれるかい? そう問い掛けるヒノエに、望美は庭を見つめたまま頷いた。
 熊野に嫁いでから、初めて見る雪。以前訪れた時は夏だったから。
 望美の視線を追って、ヒノエも外を見る。
「香炉峰の雪は簾をかかげてみる……だね」
 少女のように頬を上気させている望美がヒノエを振り返る。
「……なぁに、それ?」
「白楽天の詩の一説さ。
 日高ク睡足リテ猶ホ起クルニ慵シ
 小閣ニ衾ヲ重ネテ寒ヲ怕レズ
 遺愛寺ノ鐘ハ枕ヲ欹テテ聴キ
 香炉峰ノ雪ハ簾ヲ撥ゲテ看ル ……あいにくと、この庭には山はないけれど……」
 そう言ってヒノエは言葉を区切り、腕の中の望美に視線を移した。
「なに?」
「お前さえいて、一緒に刻を過ごす事ができれば、どんな贅沢にも勝る。そうだろ?」
 不適に笑ってみせるヒノエに、望美も嬉しそうな笑みを返した。
「来年もね、再来年も、その先もずっと、こうしてヒノエくんと一緒に、熊野の景色が見られればいいな」
「ふふっ、それは満点の答えじゃないよ、望美」
「えっ? ダメ?」
「“いいな”じゃなくて、そうするのさ。いくど四季が巡っても……」
 唇が触れ合いそうな距離で、ヒノエは囁くように言った。
「……ずっと、オレの隣にいてくれるんだろう?」
「…………いる」
 望美の応えは、ヒノエの唇へと消えていった。
 熊野に初雪の降った朝。二人で過ごす時間は、いかような過ごし方にも勝る。
 それは至上の、冬の贅沢。
+あとがき+
 某様の寝起きヒノエ絵にあまりにも萌えたので、書いてみました。
 白楽天の“楽天”とは、白居易の字(あざな)でございます。
 私は枕草子で知ったのですが、白居易の漢詩というのは平安時代の宮廷でも親しまれていたようで、まぁヒノエくんも知っていてもおかしくないだろうなと思って出してみました。
 ちなみに意味は「日が高くなって寝足りたけど、まだ起きたくないな〜。小さな部屋で布団を引っかぶってるから寒くないし〜。遺愛寺の鐘は枕を斜めに立てて寝たまま聞いて〜。香炉峰の雪は簾を跳ね上げて眺める。こりゃ金がかからなくて良い贅沢だ」つー漢詩です(脚色あり)

 

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