待宵月 花の色

 春の夜風がささやきを交わすように木々を揺らす小望月の宵。
「あぁ姫君、ここにいたんだ」
 その声に振り返ると、単衣を着て袿を肩に引っかけたヒノエがいた。
「ヒノエくん」
「今日熊野に着いたばかりだっていうのに、休まなくていいのかい? 疲れてるだろ?」
 ゆっくりと近づいてくるヒノエに、望美は笑ってみせた。
「ううん。ついたのは昼前だったし、それから少し休ませてもらったから大丈夫。さっきお湯も使わせてもらったし」
 そういう望美の髪はしっとりと濡れている。よく温まったからだろうか、頬の血色もよく、その顔はほんのり照れている時の表情と似ている。
 ヒノエは羽織っていた袿を望美にかけてやりながら、そっか、と相槌をうった。
「い、いいよ。ヒノエくんが風邪引いちゃうよ」
「いいから。春と言っても夜風は冷たいからね。明日はお前に会いに熊野各地の要職の者たちが来るし、体調を崩したまま会いたくないだろう?」
 望美は再度遠慮の旨を伝えたが、その言葉尻にくしゃみが重なってしまって、ヒノエにほら見なよと笑われてしまった。
 くしゃみとした途端、ひんやりとした夜風を頬に感じ望美は身震いする。笑われたことに対して少々むくれたフリをしたりしたが、この際とばかりにヒノエの袿を借りる事にした。
 おとなしく袿を羽織る望美に、ヒノエは穏やかに言った。
「困った事はないかい?」
「うん、みんなよくしてくれるから大丈夫。相模さん……だっけ。あの人に色々おもしろい事聞いちゃった」
「へぇ……なんて?」
 などと聞きながらも、ヒノエは苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
 相模というのは古参の女房で、ヒノエが生まれる前からこの邸に仕えていた。その相模が望美に何を言ったのか。……あまりいい予感がしない。
 案の定望美はにんまりと笑って、
「あの風来坊をしっかりと捕まえておいて下さいねって。ずいぶん遊んでたんだって?」
 ほら、やっぱり。
 ヒノエは苦虫を追加で噛み潰したような顔で眉根を寄せてから、ひとつため息をついて望美を後ろから抱き寄せた。
「昔のことだよ。今はお前だけ。……これからも」
「本当かなぁ?」
 くすくす笑う望美の耳元に唇を寄せて、口付けながら呟く。
「本当さ。オレの言う事が信じられない?」
「──って、何人もの女の人に言ってきたんでしょ?」
 相模め、本当に余計なことを望美に吹き込んでくれたな。
 ぜひとも意趣返ししてやりたいものだが、赤子の時から自分を知っている相手には歯が立たない。誠にもって悔しい限りだが。
 変な顔をしているヒノエが可笑しかったらしい。望美はころころと鈴が鳴るように笑った。
「う・そ。ちゃんとわかってるからね」
「それは光栄だね」
 反射のように返すが、今は何を言っても決まらないらしい。極上の声で囁いたというのに、やっぱり望美は噴きだした。これは本格的に話題変更が必要のようだ。
「そういえば、ヒノエくんは何してるの?」
 口を開きかけたヒノエより早く、望美が言葉を発した。
「さっき相模さんから聞いた話では、いろいろやる事があるから今夜は戻らないって……」
「あぁ、待宵の月があまりにもキレイだからさ、望美と一緒に酒でも呑みながら愛でようと思って抜けてきたんだ」
「そうなんだ〜」
「で、望美は?」
 湯上りに一人で庭に出て何をやっていたのかと問いかければ、望美は遠い目をしながら微笑んだ。
「うんちょっと、桜が見たくなって……」
 二人の前に鎮座する桜は、いにしえからこの地で生きる老大木。長い年月を経た大樹だけが持つ荘厳な雰囲気をまとい、二人に向かって優しく花枝を広げていた。
 風に揺れる梢の音が、さながら波の音のよう──。
「ヒノエくんと会ったばかりの頃も、一緒に桜を見に行ったなって思って」
 本当は自分の中では、六波羅で出会ったヒノエは初ではなかった。けど、あの時初めて自分を認識してもらった。だから初めて会ったのは、やはりあの時だ。
 ヒノエも懐かしむように、桜を見上げながら笑う。
「そういえば、そうだったね。あの時オレは、お前の強い光を宿した瞳に、どうしようもなく惹かれたんだ」
「ねぇ、そのうち時間が出来たらでいいから、また下鴨神社に桜を見に行くの、できる?」
「もちろん。姫君が望むのならいつでもいいよ」
「………………」
 ヒノエの返事に、しかし望美は何も言わなかった。
 そんな望美の態度が不思議に思えて、ヒノエは首を傾げた。
「どうしたんだい望美? いつもと違っておとなしいね」
「……どーせ私はお転婆ですよ〜」
 膨れてみせる望美が可愛らしくて、ヒノエは喉の奥で笑った。
「ふふっ、活発な望美も嫌いじゃないけど、その話じゃないよ。……何か気になる事があるなら、なんでもオレに言うんだぜ? その清らかな胸の内に翳りが生じて、オレのその花の笑顔が霞んでしまったりしたら一大事だからね」
 望美が不安を感じているならば、どんな些細な事でも取り除いてやりたい。生まれ育った世界でなく自分の元に戻る事を選んでくれた望美に、ヒノエが返せる精一杯のこと。
 溢れる愛しさと守護欲に突き動かされて、そっと望美を抱きしめる。
 だがしかし、望美はなかば上の空のような声で返事をした。
「…………うん」
 心ここにあらず。ヒノエの言葉をちゃんと聞いているのに、聞いていないような。
「望美、本当に元気がないね、どうした?」
「別に……」
 大丈夫だよと言う割には、だが本当に元気がない。
「望美」
 隠し事をするなという風に名前を呼べば、困ったように望美はこたえた。
「本当に大丈夫なの。たぶん理由なんかないんだと思うから」
「理由がない?」
「うん。……あ、あのね、私たちの世界にはマリッジブルーっていう言葉があって……」
 結婚を決めた女性が、本当にこれでよかったのか、間違ってはいないか。そしてこれからの将来と生活を不安に思って、漠然とした切なさを胸に抱える。
「別にヒノエくんの手を取った事を後悔しているわけじゃないし、これからに不安を感じているからとかじゃないと思うの。ヒノエくんとだったら、どんな事が起こっても乗り越えていけると思ってる。源平の戦でそうだったように、ヒノエくんはきっと私を支えてくれる。……よね?」
 断言してから伺い見るようにヒノエを振り返れば、ヒノエは不敵な笑みを浮べて頷く。
 望美は嬉しそうに頬を染めながら、桜に視線を戻した。その表情から感情が薄らぐ。
「ねぇ。……結婚って何だと思う? 結婚したら、その日から何かが変わるのかな?」
 望美はまだ、自分が何を悩んでいるかに気づいていないようだが、ヒノエはその質問から漠然と感じ取った。
「まさに春風だね、お前は……」
「えっ?」
「いや、独り言。たぶんさ、お前は縛られる事に抵抗を感じているんじゃない?」
「縛られる? ……って何が?」
 ヒノエが言わんとする事がわからなくて、望美は首を傾げた。
「だから、結婚すること。お前は風に乗ってどこまでも飛んでいける花だから、オレだけのものになる証──オレに縛られる事に、違和感を感じているんじゃないのかい? 自由でいたいってことだろ」
「う〜ん、そう言われてみるとそうな気もするけど……違うような気がするような気も……」
 混乱しているらしい望美が、頭を抱えて本気で唸っている。
 そんな望美が可笑しくて、ヒノエは小さく笑った。だが同時に言いようのない寂しさにかられて、望美には見えない場所で切なく笑った。
 しばらく考え込んで、望美ははっと顔をあげた。そしてちょっと怒ったようにヒノエに向き合った。
「ちょっと待って。その言い方ってなんか、私がヒノエくんと結婚するのに抵抗を感じているみたいじゃない!」
「みたいじゃなくてその通りだと思うけどね。なら聞くけど、別に夫婦の契りを結ばなくても、想いに変わりはないのにって思ったことはないのかい?」
「えっ? む〜ん。……あれ?」
 思いを巡らせてみると心当たりがあったらしい。望美がすごく不本意な顔をした。
 ヒノエは望美が向き直ったせいで離れてしまった距離をあえて詰めずに、言葉を重ねた。
「それはお前が何かに縛られなくても想いを貫ける強い女だからだよ。でもオレは違う。お前に出会ってしまってから、オレはある意味弱くなった」
「…………ヒノエくん……」
 翳りを落すヒノエの瞳を、望美は切なそうに見上げた。
「男と違って、女が縁を結べる男はただ一人。お前の夫になれるってことは、いつでもお前の隣にいてもいいただ一人の男って証。──オレはそれが欲しいんだ」
 二人の間を夜風に運ばれた桜の花びらが通る。
 それがひどく寂しくて、ヒノエは望美を抱き寄せ、強くかき抱いた。
「オレだけを見て欲しい。他のものなんか目に入らないくらい、オレに夢中にさせてやりたい。そう思っていても感情は逆で、お前に嫌われはしないか。どこかへ行ってしまいはしないかって……ちょっと、不安だよ。だから、お前を繋ぎとめられるように「夫婦」という鎖が欲しい。お前だけなんだよ、望美。オレが欲しいのは」
 以前一緒に桜を見たときには、こんなヒノエの姿を見るなんて想像もしなかった。ヒノエにこんな顔をさせることができる人間が、自分だなんて。……ずっと逆だと思ってたのに。
 強く、だが優しく抱きしめてくれるヒノエの背にそっと手を回し、自分からも抱きついた。
「いいよ」
「…………えっ?」
「ヒノエくんに縛られるなら、いい」
「望美……」
 夢から覚めたような顔をして、ヒノエが望美を見る。
 それに優しく微笑んで、望美は言った。
「でも、覚えておいて。私の方こそそう思ってること。ヒノエくんってば格好いいんだもん。他のキレイな女の人に誘惑されはしないかって、不安」
 ちょっぴりおどけた風な望美にヒノエも笑う。
「……こんなに情けないオレを、だれが誘惑するって? そんなのお前くらいしかいないだろう?」
 ──そしてオレは、その誘惑に夢中なんだ。
 愛しおしそうに呟いて、ヒノエは望美の額や頬に口付けを落す。
 くすぐったそうにそれを受けながら、望美はそれと……と付け足した。
「あのね、私の方こそ欲しい言葉があるんだけど……」
「何? お前が言の葉の鎖を求めるなんて嬉しいね」
 照れたように笑って、ヒノエが聞き返す。その頬は珍しいことに、かすかに朱に染まっていた。
 望美は見惚れながら唇を開く。
「あの……ね。結婚しようって、言って欲しいの」
「は? オレ達もう契りを交わすんだろう?」
 近いうちに婚礼の儀が行われる事は、自分たちが熊野に戻ってくる前から用意を進めていた事で、望美もよく知っているはずだ。
「あ、違うの。そういうのじゃなくってね、プロポーズ──結婚の申し込みっていうか……。とにかくヒノエくんが言うその言葉が欲しいなっていうか……」
 顔を赤くしてごにょごにょと言う望美。
 その頭の中では「自分からプロポーズを請求するってどうよ?」と思っていたが、望美はどうしてもヒノエからのプロポーズが欲しかった。
 ヒノエの手を取るということは、ヒノエの妻になること。言われなくてもそう感じてはいたけれど、今しか聞けない一生に一度の愛の言葉。
 しばらく沈黙しているヒノエに、望美は焦ったように言った。
「ダメ……だよね。あはは、そうだよね。ここまで準備整ってるのになんだかなって感じだしねっ。ごめ、聞かなかったことに──」
「望美っ」
「はいっ!?」
 思わずヒノエの腕の中で、気をつけの姿勢をとってしまう望美。
 そうして待っていると、困ったような泣きそうな顔をしたヒノエが、痛いくらい真剣な瞳で自分を見つめていた。
「お前は、オレが紡ぐその言葉を、欲しいと思ってるんだね?」
「う、うん……」
「いいのか? それを言ったが最後、言霊になって一生お前を離せないぜ? お前はオレのものに。オレはお前のものになる」
 確認をとるようなヒノエの言葉に、望美はふっと緊張を解いて不適に見上げてみせた。
「ヒノエくんの他に、誰が言うの? それに、もともと離す気がないんでしょう? 私も同じだよ」
 言葉を紡ぎ終わった瞬間に、望美はヒノエに顎をすい取られ唇を奪われた。
 視界に映っていたはずの桜が、ヒノエによって遮られる。
 視覚も触覚も……五感の全てがヒノエしか感じられなくなったころ、その唇が名残惜しげに離れた。
「望美、オレはお前の望むものをやるよ。物も、事も、世界も、……想いも。お前を世界の誰よりも幸せにする。お前の隣にいていいただ一人の男にオレがなれるのなら、オレの隣にいていいのはお前だけだ。これから先、オレの心をやるのはお前だけだよ。だから望美──」

──オレ達、結婚しよう。

 ヒノエの言葉に望美は嬉しそうに頷く。
 待宵の月が桜を照らして、散りゆく花びらが風花のように二人を包んでいた。
 やがて、月光に浮かび上がる二つの影が再び重なり、しばしの間寄り添い続けていたのだった。

 

〜 あとがき 〜
 2006年1月の「ありがとう企画」で展示した作品ございます。
 待宵月と桜とプロポーズをテーマに、友あかとヒノ神子で書いてみました。

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