Ekstase.

 望美は眼下に広がる夜景を見てため息をついた。
 このデパートの屋上からは確か海が一望できるはずだが、今は闇の中に沈んでしまって、そこに海があるかどうかさえわからない。
 予想はついていたけれど、やっぱりその予想が当たっていた事に望美はもう一度ため息を零した。
(何故自分が彼の唯一だなんて勘違いしていたんだろう)
 闇の暗さは今の自分の心のようだ。あちこちに灯る電灯の光がほとんどの闇を照らすことが出来ないように、今の自分に嫌気がさして、どんな過去を思い浮かべても自分を好きになれない。彼が自分を好きだと言ってくれた時の記憶さえ、自分でないことのように思える。
 ここまで落ち込んでしまったのは、今日一日で自分の浅ましさをイヤというほど自覚してしまったからだ。
 明日からまた彼と離ればなれの数日が待っているというのに──いや、だからこそ、素直で可愛い彼女でいることができないでいる。
(どうやったら、昔の自分に戻れるの?)
 望美はフェンス代わりのガラスの壁に、コツンと額をつけた。




「えっ? また帰るの……?」
 ヒノエから告げられた事実に、望美は紅茶をいれる手を思わず止めた。
 ショックを受けている風な望美を見て、ヒノエは申し訳なさそうに目を細める。
「ああ。ちょっと重要な取引があってね、明日からまた数日戻ってくる」
「そんなぁ。昨日帰ってきたばっかりなのに……」
 しょんぼりと項垂れる望美を引きよせ、ヒノエは頬に口づけを落とした。
「本当に悪いね。でも今回はすぐに帰ってくるから。今週中には絶対戻る。約束するよ」
「……うん」
「責任を果たせる男でいることって、お前の父上とも約束したし、ね」
「…………うん、そうだね」
 落とされる唇の感触をくすぐったそうに受け止めながら、ぎこちなく望美が頷く。頭ではわかっている。けど寂しいと思う心を押さえ込めないでいる、そんな感じだ。
 そもそもヒノエはこの世界の人間ではない。異世界の住人であるヒノエは、神の力を借りて二つの世界を往復している。
 何故彼がそんな事をしているのかというと、それはひとえに望美の為。いずれまた異世界へと渡る望美が、この世界に心残りを作らないために猶予を作ると共に、その期間彼女が寂しくないよう、側で過ごせるようにと。
 だがヒノエは熊野の頭領だ。統べる立場の彼はしばしばこの世界を留守にする。望美の父も、ヒノエが「役目を疎かにしないこと」を条件に二人の交際を認めたのだから、彼が帰るというなら望美だって笑顔で送り出さなければならないのに。
(でも……寂しい)
 その言葉を口に出さなくても、そんな事ヒノエはとっくに察しているだろう。だから言わない。困らせたくはない。
 ヒノエも望美の心を正確に把握しているから、これ以上の謝罪はせずに提案をした。
「ねぇ望美。今日はどこかに出かけるかい?」
「えっ? 今から?」
「ああ。お前が行きたい所ならどこでもいいよ。オレが戻っている間がすぐ過ぎちまうくらい、記憶に残る日にしようぜ?」
 そう言って片目をつむってみせるヒノエに、望美も瞳を輝かせる。
「うん、行きたい!!」
 こうして二人は、いれたばかりの紅茶を飲みながら目的地について相談を始めたのだった。




 ゴトゴトと江ノ電の揺れる音が耳に心地いい。
 立ち乗りのまばらな車内で、望美はヒノエと他愛ない話に笑っていた。
「でね、将臣くんも絶賛の、すっごい綺麗な海の写真集なんだよ!」
「へぇ、それは楽しみだね」
「でしょ! で、今日は3時からサイン会があるみたいなんだ。思い出してよかった!」
 ウキウキと話す望美の話に、ヒノエは微笑ましそうに耳を傾けていた。
 そのヒノエが、電車が停車した時ふいに立ち上がった。
「? ヒノエくん? 鎌倉は次だよ?」
 まだ降りる駅ではないはずだ。そう首を傾げる望美に“そのまま座っておいで”とでも言うように微笑み、ヒノエはたった今乗車してきた女性に声をかける。
「ここ、どうぞ。あと一駅ですけど」
 少しおどけた風に声をかけたのは、大きなお腹をした妊婦。新しい生命を宿した体には、一駅といえど揺れる電車は大変だろう。そう思わせるような女性だった。
 女性は恐縮しながらヒノエが譲った席に座る。
 一連のやり取りを見て、つられて席を空けようとした望美だったが、考えてみれば妊婦は一人なのだから自分が空けても仕方がない。
 一人あれこれ考えている望美の隣で、ヒノエと妊婦が生まれてくる子供についてにこやかに話している。
 温かい眼差しで婦人に接するヒノエを見て、望美の心がちくりと痛んだ。
(……明日からまたヒノエくんと離ればなれの生活が始まる……)
 望美はその痛みを、明日から消えるヒノエのぬくもりを思っての気持ちだと勘違いした。
 だってそうだろう。今婦人に向けているように、ヒノエの微笑みはとても優しくて、切なくて。いつでも望美の心にさざ波をたてる。
 心に感じだ寂しさを振り払うように、望美は席を立った。
 二人の乗った江ノ電が、今鎌倉駅に停車しようとしていた──。




 横浜まで出て、望美とヒノエはあちこち歩き回った。
 普段は藤沢で買い物をするのが常だから、初めてくる街にヒノエは多々驚いている。
「この時計はすごいね。どんな構造してるのかい?」
「えっ? こ、構造は私もわかんないや……。でもね、いつも何時ちょうどって時に動くんだよ。今は右上のマスに針があって開かないけど、12時丁度だと全部開くんだ〜」
「そうなのかい? なら、それも見てみたいね」
「じゃぁ、帰ってきたらまた来ようよ! 今度はお昼前に着くようにしてさ!」
「ふふっ、そんなにはしゃいで姫君は子供みたいだね。……でも、そうだね。オレも楽しみにしてるよ」
「うん!!」
 微笑むヒノエに望美は嬉しそうに頷く。
 二人は巨大な機械時計を見て、いろいろとショッピングをして、横浜の街を堪能した。
 あっという間に時間は過ぎ、腕時計は2時45分を指そうとしていた。
「あっ! ヒノエくん、サイン会始まっちゃう!!」
 慌てたように望美が叫ぶ。初めてではないけど、望美だって横浜はあんまり来ない場所だから、急いでいかないとサイン会場に遅れてしまうかもしれない。
 現在地を把握しようときょろきょろし始めた望美を、ヒノエが忍び笑いをもらしながらフロアガイドの前に誘う。
「もう! そんなに笑わないでよ!」
「くくっ、いや……だってさ、さっきまでオレの事を連れまわしてたのに、急に迷子の子供みたいなんだもんな」
 オレの姫君は本当に可愛いねなんて誤魔化そうとしているヒノエを軽く睨み、唇を尖らせつつフロアガイドを確認しようとした、その時。
「パパぁ〜!!」
 突然ピンク色の塊がヒノエに突進してきた。
「おっと!」
 背後からの奇襲だったが、ヒノエは危うい所で平衡を保つ。
「えっ? えっ? えっ?」
 突然の出来事に、望美は目を白黒させた。
「どうしたのかな? 小さな姫君?」
 振り返って足元を見てみれば、抱きついてきたのはピンク色の服を来た小さな女の子だった。
 女の子は自分が抱きついたのが父親でないことを知ると、火がついたように泣き出す。
「えっ? あっ? えっ?」
 展開についていけず、望美は混乱するばかり。
 お子様が二人いるような気分になってヒノエは苦笑を浮かべ、ひとまず泣いている女の子に向き直った。
「パパとはぐれたのかい?」
 膝を落とし、同じ視線で問い掛けるヒノエに、女の子は泣きじゃくりながら頷く。
 女の子の涙を手で拭っているヒノエに、望美はぎくしゃくしながらハンカチを差し出した。
「悪いね望美、借りるよ。…………で、どうしようか?」
 女の子がヒノエにしがみ付いて泣くので、ヒノエはひとまず女の子を抱き上げた。
 こんなに泣いている子供がいるのに、親らしき人間が駆けつけてこないとなると、近くにはいなさそうだ。
「か、カウンターとかに行けば、迷子センターみたいな所を教えてくれるんじゃないかな? 放送でお父さんを呼び出してもらおうよ」
「そんな便利なものがあるのかい? なら、それで決まりだ。行こうか」
 そう言ってヒノエは女の子を抱いていない方の手を望美に差し出す。
「う、うん……」
 ぎこちなく頷きながら、望美はヒノエの手を握りしめた。




「すみません、迷子なんですが」
 ──と言ったものの、ヒノエの言葉を聞いている人はいないようだった。
 というのも、係りの人は他の迷子の話を一生懸命聞いている所で、ヒノエたちが入ってきた事に気づいていないようなのだ。
 連休の初日だからだろうか。迷子センターは満員御礼状態で、あちらこちらで泣いたり暴れたりしている子供でいっぱい。反対に係りの人間は2人だけだった。
 あちこちから聞こえる泣き声に、ヒノエが抱く女の子も再び泣きべそをかき始めていた。
 二人は途方にくれたため息を同時に零し、顔を見合わせて苦笑を浮かべた。
「……忙しそうだね……」
「そうだね、困ったな」
「サイン会遅れちゃうね。しょうがないけど」
「姫君だけでも先に行っておいでよ。オレはこの子を預けたら、すぐに追いかけるからさ」
 ヒノエの申し出に、しかし望美は首を振った。
「ううん。どうしてもサインが欲しい訳じゃないもん。写真集をヒノエくんに見せたかったのと、ついでにこんな人が撮ったんだって見てみたかっただけだから……」
 本当にいいのかと伺うような微笑みに、望美も微笑んで頷く。
「いいんだ。それより、ヒノエくんと一緒にいる方がいい」
「嬉しいことを言ってくれるね。自惚れてしまいそうだよ?」
 自惚れていいんだよ。そう呟いた声は、やっとこちらに気づいた係りの人によってかき消された。
「すみません、お待たせしてしまいまして。お迎えですか?」
「いえ、迷子なんです。7階のエスカレーター前で見つけまして」
「7階ですね。ありがとうございます。あとはこちらで対応いたしますので。本当にありがとうございました」
 少々疲れ気味の係員は、それでも笑顔を浮かべてヒノエが抱く女の子を受け取ろうと手を差し出す。
 ヒノエたちはほっとして、女の子を地に下ろして係員に預けようとした。
「ぃやぁ──!!」
「おっと」
 地に下ろした瞬間、女の子は泣き喚いてヒノエの足にしがみ付いた。
 そのまま父親を呼びながら、接着剤でくっつけたようにヒノエの足から離れなくなってしまう。
「ひ、ヒノエくん。ど、どうしよう……」
「ど、どうしましょう。あの……お父さん…ではないんですよね?」
「ちっ、違います!」
「そ、そうですよね。お若いですものね」
 真っ赤になって否定する望美と、変な事を聞いて焦る係員。そして二人して困惑した様子で、ヒノエを見る。そんな風に見られても、ヒノエとしても困ってしまうのだが。
 大きなため息をついて、ヒノエは女の子を再び抱き上げる。よしよしとあやしながら、涙を拭ってやった。
「小さな姫君。名前は言えるかい?」
 涙で顔中をぐしょぐしょに濡らしている姫君から情報を聞き出すのは、かなり時間がかかりそうだった。




 と、とりあえず放送を……。そう言って係員は女の子の特徴をメモし、放送機具があるブースへと行ってしまった。
 確かに大泣きしている女の子から名前やら何やらを聞き出してから放送するより、先に特徴だけでも放送しておいたほうが親が早く迎えに来るかもしれない。
 望美もそう思ったが、正直な所、ヒノエにお守りを押し付けたのではないかと疑ってしまいそうだった。
 ヒノエと過ごすための時間が、僅かにだが確実に減っている。
 その事に、望美は内心ひどく焦りを感じていた。
(どうしよう。女の子は放っておけないけど、このままだとデートの時間が……)
 そこまで考えて、望美は自己嫌悪に陥った。
(…………私ったら、小さな女の子が泣いてるっていうのに、自分のことばかり考えてる……)
 目の前の少女の不安を解消してやる事よりも、彼と一緒にいたいという欲望を満たしたいと考えている。
(──最低……ッ)
 心を侵食しようとしていた澱を振り払うように、望美は勢いよく首を振った。
「望美?」
 気づいたヒノエがどうしたのかと覗き込んでくる。
 その真っ直ぐな瞳に気づかれたくなくて、望美は視線を逸らすように泣いている少女に向き直った。
「ねぇ、お名前言える?」
「わぁぁあん! パパぁ〜っ!」
 女の子は泣くばかりで、名前が名乗れないのか、泣くのに忙しいのかわからない。
 ヒノエが聞いても同じ状態で、身元調査は一向に進展しない。衣服の特徴だけで、親が迎えに来てくれるといいけれど。
「困ったなぁ。ねぇ、パパと一緒に来たの?」
 望美がそう聞いた時、女の子は泣きながらもコクリと頷いた。
「あ! パパと一緒なんだ。じゃ、ママは? ママも一緒に来た?」
 再びコクリと頷く女の子。
「そっかパパもママも居るんだね。ねぇ、どこから来たの?」
 この質問には女の子は答えなかった。どうやら口は泣くので忙しいらしい。
「とにかく、この子が少し落ち着くまで待ってみようぜ? ……ふふっ、それにしても……」
「? どうしたの?」
「思い出すね。熊野でお前が迷子の面倒を見始めたときの事を」
 あの夏の日の出来事は、今でも鮮明に思い出す事ができる。望美もあの時の事を思い浮かべて小さく苦笑した。
「そうだね。……もしかして私たち、迷子に縁があるのかなぁ? ちょっと困っちゃうね」
「ふふっ、確かにね。でも、以前も今も、お前は変わらないね。たとえ世界が違っても、弱きものには手を差し伸べる心優しき姫だよ」
 そう言われた瞬間に、望美の中で心がドクンと鼓動した。
(違う。私は──優しくなんか、ない)
 心の感情を隠し、ヒノエの言葉に望美はぎこちない微笑を浮かべる事しかできなかった。
「望美?」
「えっ、あっ、ううん。ほんと、色々あったなぁって思って!」
「……そうだね」
 ヒノエは望美のぎこちなさに気づいたようだったが、異世界での出来事を思い出していると思ったのか、それ以上は何も言わなかった。
 だが平静を取り戻しかけた望美も、ヒノエが抱き直した女の子が彼の首に腕を回しているのを見て、言葉を失った。

 ──私の、ヒノエくんに……。

 はっと気づいた時には、望美は女の子の肩に手を置いていた。
 ただ置いただけだったから、女の子を落ち着かせようとしているようにも見える。
(……私…………今……)
 体が凍ってしまったかのように動かない。自分はこの小さな女の子を、彼から……引き離そうと、したのか。
「まいこ!」
 時間が止まってしまったかにも思えたが、それを割って男性の声が届いた。
 その声を聞いた瞬間に泣いていた少女はピタリと泣き止み、ぐしゃぐしゃにした顔のまま辺りを見回す。
 望美もヒノエも声のした方を見ると、息を切らせた男性と、少し遅れて迷子センターに向かっている女性が見えた。
「パパー!! ママ〜!!」
 二人の姿を見とめた瞬間、女の子はヒノエの腕の中から飛び出していった。
「迎えが来たようだね」
 肩の荷がおりたような口調で、ヒノエが安堵のため息をもらす。そして隣で固まっている望美に声をかけた。
「望美? ホラ、ちゃんと迎えが来たよ?」
「あ……うん。よかった……」
「ふふっ、なんだか元気がないね。あの子が行っちゃうのが寂しい?」
 望美の表情をどう捉えたのか、ヒノエがそんな事を聞いてくる。
 曖昧な笑みを浮かべ、望美はそっとヒノエの手を握った。
(……ごめん……)
 慰めるように握り返してくる力強さが心底嬉しく、苦しい。
(……イヤな女になっちゃって、ごめん……)
 心の中でそう呟き、望美はそっと手を離した。




 結局、迷子騒動が収まってみれば、サイン会は終了していた。
 サイン会自体はどうしても行きたかったものではなかったので、二人は気を取り直しショッピングの続きをする事にした。
 先ほど切望した、ヒノエとの時間が今はある。
 楽しいはずの時間だが、しかし望美は心から楽しめないでいた。それどころか──。
(……何だか、気分が悪い……)
 原因はわかっている。さっきの事を気にしているのだ。いや、先ほどだけではない。今日ここに来るまでの出来事で抱いたすべての浅ましい想いが、望美の心を蝕もうとしている。
 ──こんな気持ちを抱えたまま、ヒノエの隣に居てもいいのだろうか……。
「ご、ごめん。私ちょっと、お手洗いに行ってくるね」
 吐き気にも似た不快感を覚え、望美はヒノエに言った。
「了解。って……望美? 顔色が悪いぜ? 気分が悪いなら、どこかで休んだ方が……」
 だがヒノエに向き直った事で、その表情が彼にも伝わってしまったようだ。ヒノエが心配そうな表情をする。
 望美は慌てて両手を振って誤魔化した。
「ううん! 違うの。人が多くて暑いから、ちょっと顔を洗ってこようかと思って!」
「そうかい? なら、戻ってきたら飲み物でも飲みに行こう」
「う、うん。そう、だね……」
 無理やりに微笑みを浮かべ、望美は足早にヒノエの元から離れた。
 そのまま化粧室に駆け込み、冷たい水で思い切り顔を洗った。
「私、イヤな女……」
 少しだけ冷静さを取り戻した頭で理解したのは、先ほどまで感じていた感情の名前。
「こんなに独占欲が強いなんて、思わなかった」
 来る途中に微笑ましげに妊婦と話していたヒノエや、迷子を抱き上げ、涙を拭いたりあやしていたりしたヒノエ。
 自分以外の人間に優しくするヒノエに、堪えきれないほどの怒りを感じる。そしてその怒りは、とても大きな独占欲。この世界の誰より、自分に──自分だけに優しくして欲しい。そう思ってしまう醜い感情だ。
 こんな自分勝手な思いを抱いてしまう自分が、吐き気がするほど苦しくてイラつく。
「せっかく、ヒノエくんが出かけようって言ってくれたのに……」
 異世界に戻っている間に自分が寂しくないようにと、貴重な時間を自分の為に費やしているヒノエなのに。
 忙しい中遙かな時空を往復してくれるのは、何の為だというのか。
「………………ッ!!」
 辿り着いた思考に、望美がはっと目を見開いた。
 彼がこの世界に来てくれるのは自分の為。だからこの世界では、自分こそがヒノエの一番大切なものであると。
「──もしかして私、そう自惚れてた……?」
 彼が異世界で熊野を想うのと同じように、この世界で自分を想ってくれていたから。
 けして自分だけで構成されているわけではないのに、いつの間にか、自分はヒノエの唯一であると思い込んでいた。
「……もう、ヤダ。私ってば……」
 大声で泣き出したい衝動を堪え、望美はその場にしゃがみこんだ。
 出しっぱなしの水道の音がやけに耳に響く。
「こんなの、ヒノエくんが好きになってくれた私じゃないよ……っ!」
 自分の事しか考えられない女なんて。
 仲間を救いたくて、どこまでも真っ直ぐに前を向いていた自分はどこに行ったのだろう。
 のどの奥で嗚咽を押し殺して、望美はしばらく声を立てずに泣いた。
 涙を流してしまえば少しは楽になって、ふらりと立ち上がって鏡に向き直る。
「ヒドイ顔〜」
 でもそれよりももっと酷いのは、自分の心だ。
「……どうしよう。これじゃぁ、ヒノエくんの所に戻れない」
 充血した目は誤魔化せるかもしれないけど、それよりも問題は抱えている気持ち。
 以前のように前を向いていた自分を思い出さなければ。そう言い聞かせてみても、見失った自分はそう簡単には見つからないみたいだ。
「──海が、見たいな……」
 いつもの自分を知っているモノ。ふと思いついて、望美は呟いた。
 この世界でも異世界でもたくさんの思い出がある海を見れば、少しは自分を思い出すかもしれない。確か今いるデパートの屋上からは、横浜港が一望できたはず。
 そう思いついた瞬間に、望美の足は屋上へ向いた。
 どこをどう歩いたかは記憶になく、気づいた時には夜風の吹き荒れる広場に立っていた。
 だが期待していた海は闇の中に沈み、強い風に吹き消され波の音も聞こえない。
「……そんな、の、ってないよ」
 心のどこかで想像がついていたのに、突きつけられた現実に望美は笑い出した。そしてそれは小さく消え、最後にはため息に変わった。
(何故自分が彼の唯一だなんて勘違いしていたんだろう)
 ただヒノエの事が好きなだけなのに、その気持ちはなんとも醜いものを生み出したのか。
 暗闇に沈んだ海のように、ヒノエが好きだと言ってくれた自分はどこにいるのだろう?
(どうやったら、昔の自分に戻れるの?)
 望美はフェンス代わりのガラスの壁に、コツンと額をつけた。




「…………望美、遅いな」
 化粧室から帰らない望美を思って、ヒノエは腕時計を確認した。
 望美と別れてすでに30分以上経過している。女性の身づくろいには時間がかかるし、少し気分が悪そうだったから、というのを差し引いても、時間がかかり過ぎている気がする。
「といっても、迎えに行くわけにもいかないよな……」
 苦笑しつつ、ヒノエは携帯を取り出す。
 こちらの世界に来てから渡された利器の使い方は十分に理解している。化粧室の中の女性に電話をかけるのは気が引けるが、気分が悪くて休んでいるかもしれないとヒノエは短縮ダイヤルを押した。
 ──が、いくら待っても一向に出ない。
 す、とヒノエの瞳が細められ、表情が消えた。
「……迷子って線は消えたようだね」
 望美の性格上、場所がわからなくて焦るというのはありえそうだが、その場合だったら電話には出るはず。
 となると気分が悪くて休んでいる可能性のが高くなってくるが……。ヒノエは一つため息を漏らすと、フロアの化粧室に足を向け、たった今出てきた婦人に望美を見なかったかと聞いてみることにした。
 数箇所ある化粧室がすべて空振りに終わり、ヒノエは表情を険しいものに変える。
「ったく、どこへ行ったんだ、望美は……!」
 別れ際、どことなく危なげな表情をしていた望美を思い出す。今思うと、単純に具合が悪そうな表情とは、少し違っていたかもしれない。
「どうして居なくなったんだか知らないけど、オレがこのままにしておけると思ってるのかい?」
 生まれ始めた焦りを押さえ、ヒノエは望美を探す為に足を踏み出したのだった。




「──探したよ、望美」
 聞きなれた声は風に消される事もなく、暗闇を見つめていた望美に届いた。
 額を預けていたガラス壁には、自分のすぐ背後に立つヒノエの姿を映している。望美は慌てて振り向いた。
「っ!? ヒノエくん……っ!?」
「一体こんな所で何をしていたんだい? 外の風に当たりたかったのなら、オレに声をかけてくれてもいいと思うけど?」
 見つけた安堵。いきなりいなくなった望美に対しての非難。他にもいくつかの感情を混ぜた声でヒノエは問う。
 彼の足が自分の方へと一歩近づいたのを見て、望美はとっさに声を上げた。
「こっ、来ないで!」
「どうして?」
「お願い来ないで! 私、ヒノエくんに嫌われたくない……っ!」
「……どういう事だい?」
 不可解な理由に、思わずといった風にヒノエの歩みが止まる。
 望美は捲くし立てるように叫んだ。
「勝手にいなくなってごめんっ。でも……でも私今すごくイヤな女なの。こんな私ヒノエくんに見られたくないの! あ、明日からまた会えなくなるのに、嫌われたくないの……ッ!!」
 望美の必死の叫びに、ヒノエはなんとなく理解する。
 きっと彼女は内心で、許せない葛藤を抱えているに違いない。どこまでも真っ直ぐで純粋だからこそ、許せない感情を抱え、持て余しているのだろう。
 こういう時の望美は、大丈夫だと受け入れただけでは納得しない。ヒノエはゆっくりと瞬きをし、問い掛けた。
「何を悩んでいるかは、話せないのかい?」
「……ごめん。だって話したら、ヒノエくんは私を嫌いなるかもしれない……」
「そんなことはありえない。……って言っても、今の望美には信じられないかもね」
 唇の端に小さく苦笑を刻んで、ヒノエは望美の方へゆっくりと近づいた。
「なら質問を変えるよ。お前はその想いを今オレに話さないで、どうやって解決させるんだい?」
「……えっ?」
 ヒノエの歩みを拒否するかのように、望美が壁に背を貼り付ける。しかしその瞳はヒノエの問いかけに揺れていた。
「オレは明日、熊野に戻らなければならない。お前が言った通り、明日からしばらく離ればなれだ。その間にお前の悩みは解決するのかい? 時間が経てば解決するの?」
「……しない……と、思う……」
「なら、その気持ちをどうするの? オレがいない間、将臣や譲るにでも相談する? それとも独り悩んで苦しむのかい? ……そんなお前を残していくくらいなら」
 望美の目の前で立ち止まったヒノエは、スボンのポケットから煌く何かを取り出した。
「ヒノエ……くん?」
「いっその事今この場で、お前を熊野に連れて行ってしまおうか」
 しゃらん、と音を立てて望美の前に示されたのは白龍の逆鱗。望美はいくどもこれに助けられ、力を借りて歴史を変えてきた。そして今は、異世界を越えた想いを成就させる為に、ヒノエが持っている。
「ヒノエくん……っ!? 待って、そんな──」
「──お前想いが何なのか……」
 望美の言葉を遮るように、ヒノエは言葉を紡いだ。
「お前がちゃんと話してくれないと、本当の所はオレにはわからないよ。それをお前がどうしても話したくないなら、オレも無理には聞かない」
 その口調は柔らかく、静かだ。しかしその裏に秘められた望美への想いが、陽炎のように揺らめくかのようだった。
「だけど、こんな状態のお前を放って熊野に帰れるほど、オレは出来た男じゃない。この世界で唯一とも言うべきお前が苦しんでいるのに、オレが一人熊野に帰るなんて出来ると思うかい?」
「……唯一…………。だ、って……でも、だって……」
「選択権はお前にあげるよ。今ここでオレに話してくれるか、それともこの場で熊野に攫われるか」
 望美が今出す答えはわかっている。だからこそヒノエはどちらか選べと要求した。望美に理由を話させる、その為に。
 空いている方の手で、ヒノエは望美の手を取る。ぴくりと反応した手を逃さずに、引き寄せて唇を寄せた。
「ねぇ、オレに話して望美。オレはお前が独り悩んでいるのを残してなんていけないし、オレ以外の男を頼るなんてそれ以上に許せない。例えオレの世界じゃなくても、このお前の世界での一番は、オレがいい」
「ヒノエ……くん」
 ヒノエの言葉を、望美は信じられない想いで聞いていた。ヒノエが口にする言葉一つヒトツが、望美がヒノエに対して抱いている想いと一緒だったから。
「本当に、そう、思ってるの?」
「当たり前だろう? オレは、お前の一番近くにありたい」
「……私もそう、思っててもいいのかな……?」
「えっ?」
 望美が返してきた言葉に、今度はヒノエが驚く。一瞬意味がわかりかねたが、望美の悩みは──。
「望美、お前……」
「ねぇ、私もヒノエくんの一番でいたいって想ってていい? ヒノエくんには熊野っていう大切なものがあるってわかってる。だけどこの世界にいる間は、私がヒノエくんの一番なんだって……ッ!」
 望美が必死に問い掛ける。彼女が何を悩んでいたかようやく理解したヒノエは、肯定するより前に笑い出してしまった。
「ひ、ヒノエくん……? わっ!!」
 軽やかに笑いながら、ヒノエは望美を引き寄せた。腕の中に包み込んでしまうと、望美の耳元に唇を寄せて囁く。
「当たり前だろう。オレはお前の為にここに居るんだ。お前以外の誰が、オレの一番になれるんだい?」
「本当に?」
「ふふっ、まだ疑うの? なら、オレはこの気持ちをどうやってお前に伝えればいいのかな?」
「…………だって」
 覗き込んでくるヒノエの視線にようやく安堵した望美が、頬を染めて俯く。その顎を優しく上向かせて、ヒノエは望美の唇に己のを重ねた。
「ありがとう」
「えっ!?」
 ヒノエから礼を言われ、望美は盛大に驚く。それは自分の言葉であっても、ヒノエの言葉では無いのではないか。
「そんなにもオレを想ってくれて、ありがとうって事だよ。お前は中々オレに気持ちを伝えてくれないからね。ふふっ、こういうのを『行動は雄弁』って言うのかな?」
「……なに、それ?」
「こっちに来てから読んだ本にあったんだ。本来の意味とは少し違うかもしれないけどね」
 片目をつむって、ヒノエは望美に微笑みかける。
「お前は行動で強い気持ちを物語るね。……でも、そうだな。今度からはもう少し言葉で伝えてくれると嬉しいね」
「……だって、恥ずかしいもん」
「ふふっ、そう言うと思ったけど。だけど、またこんな風に悩まれちまったら、少し困るからね。お前はオレの唯一なんだから、どんな想いでも気にせずオレに伝えて、望美」
 どうしてヒノエは簡単に、自分の中の負の感情を昇華させてしまうのだろう。
 どんな悩みを抱いていても、ヒノエはたちまち解いてしまう。この世界の人間ではないヒノエなのに、誰よりも自分の心に近い。
「ねぇ、一つ聞いていい?」
「なんなりと、姫君」
「……どうしてヒノエくんには、私の悩んでいる事の答えがわかるのかな?」
 了解を返す変わりに新たな疑問を投げてきた望美に、ヒノエは破顔一笑して「決まっている」と応えた。
「オレが世界で一番、お前を愛しているからだよ」
 その言葉は魔法の呪文のように、望美の心に刻み込まれた──。

 

〜あとがき〜
 この作品は「藤原一族阿弥陀」様に投稿させていただいた作品です。初阿弥陀参加で緊張した〜。
 今回頂いたお題が自分的にはすごく難しいものでして、本当にギリギリまで書いて消してを繰り返しておりましたが、無事書きあがってほっとしております。
 そんな悪戦苦闘の作品ですが、読んでくださった方が少しでも楽しんでいただけてたら幸いです。読んでくださってありがとうございました!
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