名の無き願い

 熊野の夜空の下、空には無数の星々が瞬いている。
 涼やかな夏虫の鳴き声に交じって聞こえてきた花色の声に、ヒノエはふと足を止めた。
 その鼻歌交じりのご機嫌な声が聞こえてくるのはあちらの方角。
 声の聞こえてくる方角の部屋に泊まる人物と、歌声から思う人物とは同じ。ヒノエはゆ
るやかに唇をつり上げた。
「どうやら、姫君はまだ起きているようだね」
 軽やかな声に誘われるように、ヒノエはそちらへと足を向ける。
 室の入り口が見える場所まで来ると、中からは望美の他に朔の声まで聞こえた。
「花同士の語らい、か。ぜひオレも混ぜてほしいものだね」
 軽口を叩きながら室の入り口をくぐると、まずこちらを向いていた朔と目が合った。
「あら、ヒノエ殿」
「えっ! ヒノエくん!?」
 朔の呟きを聞いて、望美が笑顔で勢いよく振り返る。その拍子に、しっとりと濡れた艶
髪が、美しい放物線を描いた。
「こんばんは、姫君たち。まだ起きてたのかい?」
「うん、ちょっとね〜」
 望美が歓迎するように座る場所を空けてくれたので、その場所にヒノエは腰を下ろす。
 二人の姫君の間に散らばる紙たちを見て、瞳を瞬かせた。
「なんだい、これは?」
 色とりどりの紙片と墨と筆。紙は短冊型の物が多いが、見慣れない形の物もある。
「これ? あのね、七夕の飾りを作ってたんだ」
「たなばた?……ああ、棚機ね。そうか、今日は乞巧奠の日だったっけか」
「きっこうてん……? なぁに、それ?」
 首を傾げる望美に、短冊に書いた文字の墨が乾いたかを確かめていた朔が笑って説明し
た。
「この世界では今夜、貴族たちが乞巧奠という宴を開く日なのよ。祭壇に針や糸を供えて
手芸の上達を願いつつ、歌や管弦の宴を催すの」
「へぇ〜、そうなんだ〜」
「ま、それにかこつけて騒ぎたいだけの祭事だけどね。それで? こっちは姫君の世界の
風習かい?」
 床の上に散らばるそれらを指して、ヒノエは望美に尋ねた。
「うん、そう。短冊にお願い事を書いて、笹に括り付けて飾るの」
「笹か。ああ、なるほどね」
 言われてみれば、なるほど室前の簀子に笹が置いてあった。あれにこれから飾り付ける
のだろう。
 何も書かれていない短冊を差し出しながら、望美がヒノエに笑いかける。
「せっかくだから、ヒノエくんも何かお願い事書いて行かない?」
「それはいいわね。……さっき兄上や九郎殿たちにも書いていただいたのよ」
「願い事、ねぇ。姫君たちは何を書いたんだい?」
 短冊と一緒に渡された筆を弄びながら、ヒノエは望美を流し見る。
 すると彼女はぱっと頬を染め、慌てて視線を逸らした。
「べ、別に? 大した事書いてないよ。みんなが無事でいられますようにとか、戦が早く
終わりますようにとか……」
 視線を泳がせながら答える望美の向こうで、朔が小さく笑っていた。たぶん考えている
事はヒノエと同じだろう。まったく、望美はこんな態度でどんな“大した事無い”願い事
をしたのだろうか?
 ちょっとした悪戯心を起こして、ヒノエは望美にふわりと詰め寄る。
「ふぅん、そんな可愛らしい顔をして、気になる男への想いでも綴ったんじゃないの? 
妬けるね」
「そ! そんな事ないよ! もぅ、ヒノエくんってば調子に乗って!」
「本当に?」
「ほ、本当だってば……!」
「そう。ならさ、オレが姫君への想いを綴ったら、姫君は受け取ってくれるかい?」
「ままままたそういう風にからかう! 冗談は止めてってば……っ!」
「冗談だなんてヒドイね。お前はオレの事が嫌いなのかい?」
「だーかーらーっ!!」
 ヒノエが身を乗り出せば、その分だけ望美が身を引く。が、座ったままで身を引くには
限界があるわけで、あと少しで倒れてしまいそうになった時、呆れたような咳払いが割っ
て入った。
「……ヒノエ殿、悪ふざけは程々にしていただけないかしら?」
「おっと、これは失礼。だけど、悪ふざけって訳じゃないんだけどね?」
「どうかしら。ヒノエ殿はいつもそのような調子だから、本当の所なんてわからないわ」
「ふふっ、手厳しいお言葉だね。ホント、朔ちゃんには敵わない」
 ヒノエが肩をすくめて白旗を揚げると、朔はひとつため息をついて望美に向き直った。
「望美、ヒノエ殿の事は放っておいて、笹に短冊を飾ってしまいましょう?」
「う、うん、そうだね。ひ、ヒノエくん、お願い事書いたら持ってきてね。あ、ちゃんと
名前も書いてね」
 慌てて立ち上がって、望美は安堵の吐息を溢す。
 そのまま朔と一緒に笹の所へ行ってしまった望美に、ヒノエは思わず忍び笑いをもらし
た。
「残念、逃げられたか。やっぱり、追い詰めるなら邪魔者がない所でだな」
 朔と笑い合いながら笹に飾り付けている望美を見つめ、ヒノエは瞳を細める。
 短冊を読み返している望美を見て、ふと自分の手の中の短冊に視線を向けた。
「願い事ねぇ」
 まったく望美は無邪気なものだ。こんな短冊に願いを書いたところで、本当の所、自分
の実力でしか願いは叶わない。
 かといって何も書かないのも社交に欠ける気がして、何か適当な事を書いてしまおうと
筆を持ち直した時、それはヒノエの視界に飛び込んできた。
 正確には“気づいた”といった方がいいかもしれない。それは円座の下から僅かに顔を
出していて、ヒノエへ遠慮がちに存在を主張していた。
「……なんだ、コレ?」
 一般的な桜色の薄様。そんな、普段なら構う事のない紙切れに手を伸ばしたのは、その
紙切れが望美の香りを纏っていたからだろう。
 円座の下から掬い上げてみると、その紙切れは短冊だった。ヒノエの持つ短冊と同じ紙
。大きさも色も同じで、ただ一つ違う所は、その短冊には既に願い事が書かれた後という
事。
「誰かの短冊か。あとで望美に渡さないとな。──っ!」
 何の気なしに書かれた願いを眺めて、ヒノエははっと息を詰まらせた。

 ヒノエくんとずっと一緒にいられますように。

 短冊に書かれた文字を読み取って、ヒノエは瞳を見開いた。
 願い事だけ。書いた主の名前さえ書いていない短冊。それだけの物なのに、とても大き
な想いを封じ込めているような気がした。
「──ホント、望美は可愛いね」
 しばし短冊を見つめて、ヒノエは微笑みとも苦笑いともつかないような吐息をもらす。
 名前が書いていないのは、無記名にしておけば誰が書いた短冊かわからないだろうとで
も思ったのだろうか。自分をヒノエくんと呼ぶ人物なんて、この世で望美一人だけだとい
うのに。
 室の外では、笑う望美の声が聞こえる。その声を聞きながら、ヒノエは短冊に口付けた

 僅かに乾いていなかった墨がヒノエの唇をひやりと濡らす。それをゆっくりと舐め取っ
て、ヒノエはくすりと笑った。
「さて、オレの願いを書くとするか……」
 自分も名前を書かないでおこう。熊野別当でも八葉でもない自分が願った事として、残
しておきたいから。
 ただしこれは天への願いではない。望美とは直接交わせない約束を、代わりに星に囁く
だけだ。
 でもいつか、彼女に言えたら。
 告げた時望美がどんな顔をするか思いを巡らせながら、ヒノエは筆を走らせたのだった





「と、届かない……」
 上の方に括り付けようと背伸びしていたら、自分よりずっと高い背が、後ろから手を伸
ばして笹を引き寄せてくれた。
「あ、ありがとう」
 振り返れば案の定ヒノエ。望美はお礼を言いつつ、彼が捕まえていてくれる間に短冊を
括り付けた。
「お願い事書いた?」
「まぁね」
「何書いたの?」
「ふふっ、内緒」
「えー! 自分は私の願い事聞いてきたクセに……」
「こういうのは言わない方が雅やかだと思わないかい?」
 確かにそうなのだけど、さっきあんな迫り方したくせに自分には見せてくれない願い事
が気になる。望美はさりげなくヒノエの手の中の短冊に手を伸ばした。
「おっと」
「あっ!」
 捕獲失敗。こっそりと狙ったのに易々と気づかれてしまった。
「ふふっ、悪戯な猫姫に狙われているようだから、高い所につけてしまおうか」
 膨れる望美に流し目を一つ贈り、ヒノエは望美の背では届かない場所へ短冊を括り付け
た。
「あ〜っ!」
「これなら、オレが行った後でも読めないだろう?」
 まぁどうせ、読んでも本気になんかしないのだろうけど。
 むくれた様子で唸る望美に片目を瞑って見せ、ヒノエはさっさと身を翻す。
「さて、願い事もしたし、オレはそろそろ失礼するよ。明日もいろいろとやる事あるんだ
ろ? あんまり遅くまで起きてるんじゃないぜ?」
「えっ、あっ、うん?」
 いきなり背を向けたから望美の方が拍子抜けしてしまって、ぽかんとした顔で振り返る

「そんな寂しそうな顔なんかしなくても、お前の夢に通うからさ、心配しなくていいよ」
「なっ! さ、寂しそうな顔なんかしてないよー!」
「ふふっ、強がる姫君も可愛いね。じゃ、おやすみ」
 軽々とした足どりで、ヒノエの姿はあっという間に闇に溶けて消えた。
 最後の短冊を括り付けていた朔が、再び呆れのため息をもらした。
「まったく、どちらの方が猫なのかしら。ヒノエ殿の方が、よっぽど気まぐれで猫のよう
なのに」
「ホントだよ、私からかわれてばかり……」
「…………。さて、私もそろそろ戻るわ。もうすぐ白龍も戻ってくると思うし、今日はも
う寝ましょう?」
「うん、そうだね。おやすみ、朔」
「ええ、お休みなさい」
 朔を見送って室内に戻り、望美は円座にすとんと腰を下ろした。
 余った短冊を一枚一枚重ねて纏めながら、ふと思い出す。
「そうだ。あれも飾らなきゃ。それで、朝一番に外せば大丈夫だよね」
 短冊は飾らなくては意味がない。隠していた想いの欠片を取り出そうと、円座をめくっ
たその時──。
「…………ない」
 望美は大慌てで飛びのいて、勢いよく円座をめくった。
 だが、そこには何も無い。円座の裏に貼り付いている訳でもない。
「えっ、うそ、何で? 私ここに隠しといたよね? まさか、もぅ一緒に飾った? ……
訳ないよね。じゃ、どこへ……」
 心当たりを思い起こそうと、望美は記憶を掘り起こしてみる。
 願い事を書き終わった時朔が尋ねてきて、こっそりと円座の下に隠して、それから七夕
の話をして皆に短冊を書いてもらいに行って……。
「短冊に紐をつけてたら、ヒノエくんが来たんだよね。──そうだヒノエくん!」
 自分たちが笹に飾り付けていた時、ヒノエはここで願い事を書いていた。もしやその時
に見つかったのではないか。
「でも、ヒノエくんな訳…ないか」
 もし彼が自分の短冊を見つけたのならば、何かしらアクションがあるはずじゃないかと
思う。あんな内容を書いたのに、何も言ってこないはずない。
 大体、それなら短冊はどうしたのだろう? ヒノエに見つかったのなら、からかいなが
らも渡してくれるはず。
 その前に、本当にヒノエに見つかったのだろうか? さらにその前に、本当に自分は短
冊を書いたのだろうか?
「う〜ん。か……書かなかったかもしれない」
 あの短冊を書くまでに、相当な時間を悩んで過ごした。願い事なんて自分で努力して叶
える事だし、運命に対してもがいている自分が、こんな短冊を書いてしまって良いのだろ
うかとすごい悩んだ。
「そうだ、悩んでる最中に朔が来たのかも!」
 段々そんな気がしてきた。だって短冊が無いのだし。
 もし書いていたのだとしたら、その短冊がどこかへ行ってしまったのだとしたら。それ
でも自分の名前は入れていないから大丈夫だろう。
「うん、大丈夫!」
 元来考え事は長く続かないタイプである。まだちょっと燻っている動揺を思い込みの力
で片付け、望美は大きく深呼吸をした。
「………………今日はもう寝よう」
 軽い倦怠感に襲われて、望美はのろのろと茵へ向かった。
 書かなかったかもしれない願い事は、短冊はまだ余っていたけど書き直さなかった。
 その理由はいろいろあるけれど、一番の理由は、願い事を形に残さなくても、いつでも
自分の心の短冊に書いて願っているから。
 茵に横になって、瞳を閉じながら今、望美は願う。

 大切な仲間が無事でいられますように。

 悲しい戦が早く終わりますように。

 そして、大好きなあの人と、ずっと一緒にいられますように──。

 

〜あとがき〜
 ヒノエさんが短冊に書いた願いと、望美さんが書いた短冊の行方は、皆様のご想像にお
任せします。
 一応どっちも考えてはあるのですが、あえて書かないほうが面白いかな、とか。
 それにしても、せっかく七夕ネタなのに、織姫彦星のネオロマンスに絡めてないあたり
ダメすぎる……(苦笑)

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