君の胸に川は流るる

 ──熊野の夏は涼しい。
 とはいえ、それは京の都と比べての話であって、現代において文明の利器の恩恵を受けてきた望美にとってはあまり変わらないものだった。
 京から熊野へと旅をしてきた間に本格的な夏が訪れたから、というのももちろんあるだろう。でも──。
「暑いものは暑い!」
 望美は宿の濡れ縁で、ふくれ面をしながらつぶやいた。
 道中はまだいい。緑深い熊野の大地が、すばらしい景色を望美に届けてくれる。木々を通り抜ける風は清涼で、望美の心までも清らかにしてくれる。
 しかしひとたび宿に腰を落ち着けてしまうと、退屈さも手伝って、じかに暑さと向き合うことを余儀なくされる。それが今、望美がへこたれている理由だった。
「……これなら、先に進んだ方がよかったかなぁ」
 本宮までの旅程は、明日からますますの山道に入るそうだ。だからその前に一度しっかり休息をとろうということになり、望美たちは陽が落ちるだいぶ前から宿をとっていたのだった。
 でもここで腰を落ち着けずに、もう少しだけ足をのばしておけばよかったかもしれない。巡礼者が夜を明かすための山小屋や堂は数あるという話だったし。
 ──暑いのは苦手だ。嫌な記憶を呼び覚ますから。
「……………………」
 あれは秋の出来事だったけれど、身を焦がすような熱さと、この夏の暑さは似ている。
 望美は重苦しいため息をついて、すぐそばの高欄につっぷした。
「夏の暑さだけだったら…………慣れたのになぁ」
「──何が慣れたんだい?」
 突然かけられた声に驚いて顔をあげ振り向けば、すぐ目の前にはヒノエの顔があった。
「わ──ッ!!?」
 本当に目の前。吐息さえかかりそうな距離にあった精悍な顔に心底驚き、望美はのけぞって後ずさる。
「そんなに驚くほどかい?」
 ヒノエは望美の驚きように笑いながら、その場に腰をおろした。
 うるさく暴れる心臓をおさえつけ、望美が噛みつくように答える。
「お、驚くよ! すっごい驚いたよ!! ぜ、ぜんぜん気配しなかったし……ッ!」
 いつ近づいたのか、まったく分からなかった。
 ふき出た汗を拭う望美に、ヒノエは片目をつむって見せる。
「ふふっ、忍んでくるのは得意なんでね。……我らが神子姫様は暑いのが苦手なようだったから、様子を伺いに来たんだけど──」
「今驚いたせいで、よけい暑くなったよっ!」
「──みたいだね。ごめん、もうしないよ」
「あ、う……な、なら、いいけど…っ!」
 あっさりと謝られ、いまだ残る驚きの感情と共に、気持ちの置き場所がわからなくなる。
 続く言葉がみつからない。しかしそれが見つかるより早くにヒノエが口を開いてくれたので、望美はホッとしてようやく焦りを解いた。
「そうだな……今のお詫びに、納涼にお連れするのはいかがでしょう、姫君?」
「のう…りょう?」
「お前を暑くした責任をとって、涼しげな場所に誘なおうかなって、ね。どう?」
 蠱惑的な言葉と流し目に再びドギマギしつつ、魅力あふれる誘いに望美の瞳がきらめく。
「涼しい場所? どんな?」
「この近くにイイ感じに遊べる川があってね。木陰も多いから涼をとるにはもってこいの場所さ」
「へ〜! 楽しそう! あ……で、でも今から遊びに行くと、早めに宿をとった意味がなくなっちゃうんじゃないかな……」
「いくら体を休める為でも、暑さにへばっているだけじゃ、休まるものも休まらないだろ?」
「そ、そう、かな?」
 期待をしているクセになかなか頷かない彼女に、ヒノエはとっておきを付け加えた。
「川の水で瓜を冷やして、一緒に食べようぜ?」
 冷たい水で冷やした瓜は、きっと甘く極上の癒しになるだろう。
 望美はゆれていた瞳から迷いを振り切ってずばり答えた。
「行く!」


  *  *  *  *  *


 木々がひらけた場所には、木漏れ日にきらきらと光る川があった。
「わぁ!」
 少し前から耳に届いていた音のとおりの清流に、望美は見るなり歓声をあげる。
「お気に召したかい?」
「うん! 涼しくて、キレイで!」
 はしゃいだ声をあげた望美は、その声の表すまま嬉しそうに川辺に近付き、水面を覗き込んだ。
 川の流れは激しくはないがそれなりに勢いがあって、豊かな水の流れを惜し気もなく主張しており、その恵みを辺りに振りまいたのではと思うほど、周囲の空気は濃密で清涼だった。
「マイナスイオン!!」
 なんだか嬉しい気分になり、望美は自然に向かって叫ぶ。
 童心に戻ったかのような望美を見て、ヒノエが小さく笑い声をたてながら聞いた。
「なんだい、それは?」
「え? あっ、えっと……癒してくれそうな空気のこと、かな?」
「ああ、確かにね。ここの空気は気分をすっきりさせてくれて好きだよ。気持ちが晴れる」
 望美の言葉に頷きながら、ヒノエは履物を脱いで川に入り、網にいれた瓜を適当な川底に沈めた。
「望美も来いよ。水が冷たくて気持ちがいいぜ?」
「うん!」
 言われるまでもない。望美は靴と靴下を脱いで岩のうえに置くと、水の流れに足を踏みいれた。
「気持ちい〜い」
 川の水が適度な速さで足を撫でていくのが気持ちいい。
 ヒノエはその場で足踏みを始める望美に手を差し伸べ、より深い場所へと誘なった。
「ほら、望美。こっちへおいでよ。あっちのがもう少し深さがあるから、行こうぜ?」
 伸ばされた手に、望美は素直に従う。ヒノエは彼女が転んだり滑ったりしないよう、よくよく注意を払いながら誘導した。
「あぁ、そこは不安定だから気を付けて」
「うん」
「そこの窪みは深いから、ちょっと迂回して」
「うん」
 川の流れが速いという事は、川底の様子がわかりにくいという事。
 しかしヒノエが頼もしく誘導してくれるので、頼りきってしまった瞬間に重心の移動を失敗して望美はよろけた。
「おっと……!」
 すかさず受けとめてくれるヒノエ。
「ご、ごめんっ」
「ふふっ、これも役得ってね」
「え、あっ」
 片目をつむってみせるヒノエに、望美は今の態勢を認識する。
 真正面から向かいあい、しかも彼の腕に深く支えられている。──恋人たちが抱きしめ合うように。
「ごごごごごめん!!」
 頬を瞬時に赤く染め上げ、望美はヒノエから離れようとした。
 彼の腕。そして逞しい胸。父親や幼なじみとは違うぬくもりに、心ばかりか体も驚いてしまい、あわてて後ずさる。
 しかし反射的に離した体はそこが不安定な川の中ということをすっかり忘れてしまっていて、望美は盛大に足をすべらせた。
「きゃっ!!」
「望美!」
 大きな音に驚いた山鳥が、近くの木から羽ばたいていく。静寂ともとれる自然の中で、蹴立てた水音がやけにゆっくりと耳に響いた。
「…………。……?」
 てっきり川の中にばしゃん、という結末がくるものと思っていた望美は、いつまでも訪れない水の包容に恐る恐る閉じていた目をあける。
「望美、平気か?」
「ヒノエ……くん……」
 一番に飛び込んで来たのはヒノエの顔で、その向こうには木々の枝先と空が見えた。
 耳のすぐ近くで水音がすると思ったら、頭の下には川の流れが。自分の傾いだ体がヒノエに支えられて空中に停止している事を知る。
「大丈夫かい?」
「う、うん、なんとか」
「それは良かった。なら、ちょっと起き上がってくれると助かるね。さすがにこの態勢じゃ、そう長くは支えられなさそうだ」
「うん、うん!」
 無理な態勢だというのはよくわかっていたので、望美は何よりも先に態勢を整えようと足に力をいれた。
 たびかさなる驚きで感覚が狂ってしまった体を動かすのは難しかったけれど、慎重に足を動かして自分の力で起き上がる。
「あっ、ツ!」
 どこか怪我をしたのだろうか? 具体的な痛みの元は探せなかった。だから一先ず後で考えることにして、そのままやっと態勢を整え、ヒノエと二人してホッと息つく。
「ごめん、ありがとう、ヒノエくん」
「いいや? あぁ、髪の先が濡れちまったね……」
 望美の長い髪まで支えることはさすがに難しく、濡れてしまった毛先にヒノエが苦笑をもらした。
「しょうがないよ、私の不注意だもん」
「そうだ、怪我は? さっきどこか痛がってたような気がしたけど」
「あ、うん。足……かな? でも気のせいだったかも、今は痛くないし……ッあ!」
 言いながら右足をあげようとして、走った鋭い痛みに顔をしかめる。
 痛みを呼び起こさないようそろりと足をあげると、くるぶしの辺りに微かな腫れができていた。
「まずいね。これは腫れそうだ」
 足の状態を確認してヒノエが診断をくだす。
 ひとまず水から出ようということになり、望美も異論なく頷いた。
(……でも……)
 川岸を振り返り、望美は不安げな表情を浮かべる。二人はすでに川の中程まで来ていたので、くじいた足で川岸まで戻れるのだろうかと、心配になったのだ。
 それを聡く感じとったのか、ヒノエは望美をゆっくりと引き寄せた。
「姫君、ちょっと失礼するよ」
「えっ? きゃあ!?」
 気付いてみればヒノエの腕の中で、望美は抱き上げられていた。背と膝裏を抱えられた態勢はまさしくアレだ。
(おっ、お姫様抱っこ──ッ!?)
 こんなこと、今で誰にもされたことない。ましてや相手は色事に長けたヒノエで──。
 望美はゆでダコのように真っ赤になり、慌ててヒノエに訴えた。
「ひ、ヒノエくん、下ろしてッ」
「どうして? 足痛むんだろ? オレがちゃんと運んでやるから安心しなよ」
「そそそそうじゃなくて。私歩けるっ、歩けるからっ!」
「っても、その足じゃ川岸に着くまでに陽が暮れちまうぜ?」
「で、でも。でもでも! は、恥ずかしいから!!」
「誰も見てないって。──ほら望美、暴れるな。怪我に響くから大人しくしてなよ。大人しくしないなら……」
「きゃっ!!」
 川に落とすフリをすると、途端に望美は縮こまって大人しくなった。
 恥ずかしさと驚きとで小さくなっている望美を見て、ヒノエはくすくすと笑いながら川岸に向かって歩きだす。
「ふふっ、可愛いね。愛しい姫君を落としたりなんか、このオレがする訳ないのにさ?」
 耳元で囁けば望美は一層赤面したが、今度は暴れなかった。
 ヒノエは巧みに均衡を保ちながら川をあがり、適当な大きさの岩の上に望美を座らせる。
「ほら、到着」
「…………あ、ありがとう……」
「どういたしまして。さて、足を見せてもらえるかい?」
 短時間の間にまた少し腫れが大きくなった足に、ヒノエは形のよい眉を寄せた。
「これはまず冷やした方がいいね。参ったな、手ぬぐいの一つでも持ってくればよかった」
 この暑さなら濡れてもすぐ乾くだろうと、不精したのがいけなかった。着ている衣でも破きそうな様子のヒノエに、望美はおずおずと問いかける。
「川の水で直接冷やしたらダメかな?」
「水の流れが速いから、ヘタするとますます足を痛めちまうよ。……っと、そうか」
 ふと思いついて、ヒノエは辺りを見回した。そうして川辺で何か作業をして、再び望美の元へと来る。
「どうしたの?」
「ちょっと石を組んできた。水の流れを遮れるようにね。さ、望美」
「うぅ……」
「あっちは足元危ないぜ?」
 促された声の意味するところがわらない望美ではない。十中八九また抱き上げられるのだろうと予想はついたが、個人的な恥ずかしさでヒノエにこれ以上迷惑はかけられないと、望美は素直にヒノエに身を任せた。
「……ごめんね、迷惑かけて」
 水の流れがゆるやかに足を愛撫する特等席で、望美がぽつりと零す。
「なんか私一人、落ち着きなくて騒いじゃって……」
 そもそも最初にヒノエに抱き留められた時に大騒ぎしなければ、こんな大惨事にはなっていなかったはずだ。
 大人とは言いきれないが、かといってもう子供ではないのだ。たかだか異性に抱きしめられたくらいであんなに動揺するなんて。
「でも……」
 ……相手が、ヒノエだったから。
 望美はそれ以上言葉にするのをやめた。覗きこんでくる彼に首をふって誤魔化し、望美は怪我を見るふりをしながらそっと隣を伺う。
(ヒノエくんは……私の事、どう思っているのかな……)
 自分に対して優しくて、頼もしくて、時に甘い言葉で翻弄してくるヒノエの本心は、どこにあるのだろう?
 そして自分の気持ちは……わからない。それもわからない。
 果たして自分はヒノエの事が好きなのか──もちろん嫌いではないけれど、それが恋愛の好きなのかがわからない。
 望美はふいに気づいた。
(そうか、私恐いんだ……)
 ヒノエの気持ちを知ることと、自分の気持ちを知ることが恐い。
 もしヒノエを好きになったら。そして彼の甘い言葉が戯れの言葉でなかったのなら。これからの未来は期待で満ちている。
 ──でも、もし逆だったら?
 自分でも気づかないうちに、望美はぎゅっと自分のスカートの裾を握りしめた。
「姫君? 足、痛むのかい?」
「えっ、あっ、ううん、大丈夫。ごめん、何でもないから……」
 思考を割るようにかけられた声に、望美は慌てて首を振る。
 そのままヒノエは望美の続く言葉を待っていたが、いつまでもつむがれない言葉に自ら会話の続きを請け負った。
「──悪かったね」
「えっ?」
「こんな事になるなんてさ。姫君を楽しませるつもりが、とんだ事になっちまった」
「でも、それは私が──」
「かもしれないけど、深いところに誘ったのはオレなんだから、オレがもっと気をつけてなきゃダメだったんだよ。……久しぶりにお前と二人きりで過ごせて舞いあがってたから、その罰かもな」
「…………えっ?」
 さらりと言われた言葉に望美は耳を疑った。
「舞いあが……って?」
「仕方がないだろ? ここのところずっと旅の空だったからね。余計なオマケがいて姫君と二人の時間をとれなかった。不満だったんだぜ?」
「ヒノエくんが……?」
 信じられないような気持ちで彼をまじまじと凝視してしまう。それともこれも、いつもの戯れの言葉なのだろうか。
 びっくりした顔をしている望美に、軽やかな笑い声をたてながらヒノエが告げる。
「ふふっ、その顔は信じてないね? だけど本心だよ。お前と過ごす時間は極上で、つい時間を忘れそうになる」
「………………」
「お前は?」
「えっ?」
「お前はオレと過ごすの、イヤかい?」
「イヤ、じゃ……ないけど……」
 心なしか頬が熱いような気がするのは、赤く染まり始めた夕陽のせいじゃないだろう。
「オレに付き合わせてばかりで、迷惑じゃない?」
「ううん、そんなことない。ヒノエくんといるのは楽しいし……す、好きだよ」
 そうだ、ヒノエといるのは楽しくて好きなのだ。
 だからこそ、久しぶりに二人で出かけて、ふいに近くなった彼のぬくもりに驚いた。……浮かれていたのは望美の方だ。
 梢の隙間から見える夕陽が傾いているのを見て、ヒノエが立ち上がろうと体勢を変える。
「──さて。名残惜しいけど、そろそろ宿に戻ろうか。お前の足も多少は落ち着いただろうし、帰って手当てをしなきゃな」
「ま、待って!」
「ん?」
 振り返るヒノエに、とっさに呼び止めてしまった望美は、少々バツが悪そうな顔をしながら続きを言葉にした。
「……も、もう少しだけ、ここにいようよ」
「でも、手当てを──」
「私に付き合わせたら、ヒノエくんは迷惑?」
 ヒノエの言葉をさえぎって、先ほど彼に問われた言葉をそのまま返せば、ヒノエの顔に笑みが広がる。
「いいや? 姫君にお誘いいただけるとは光栄の極み。……だけど、いいのかい?」
 本当は早く帰って手当をした方がいいのだけど。
「あとちょっとだけ。もうちょっと休めば痛みが引きそうだから。そしたらちゃんと歩いて帰れるし」
「オレが抱いてってやるから、別に歩いて帰る必要ないと思うけど?」
「やだ。恥ずかしいもん! それなら支えてもらって帰るほうがいい。……支えてくれるでしょ?」
 恥ずかしさを堪えつつ挑戦的に見上げると、にやりとしたヒノエの笑みとぶつかった。
「もちろん。姫君のお望みとあらばね」
「お望みです。……だから、もうちょっとここにいようよ……」
 もう少し。赤くなった頬を夕陽の紅が隠してくれる時刻まで。
 そうしたらきっと、素直に甘えられるから。
 互いの気持ちを測るように見つめ合った二人の顔が、ふいに微笑みに崩れる。
 その笑い声は、豊かな川の流れる音と重なって、大いなる自然の中に消えていったのだった。

 

〜あとがき〜
 毎度のごとく会員制サークルに投稿したヤツでございます。
 会報では、ステキな絵描きさんにお声をかけていただいて合作し、その方に挿絵+後日談を描いていただく形で掲載だったのですむふふ。
 ……でも最近ヘタレ頭領ばかり書いていたせいか、4章辺りの余裕あるヒノエが難しいいいぃぃぃぃぃ!!! 頑張ったけど、ちゃんと格好イイ所が戻ってるか不明。

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