君に咲く花 《2》
夜明けの色にしてはぬくもりのある光に瞼を撫でられ、望美はそっと瞳をひらいた。 ぼんやりとした視界に写るのは日の出の白ではなく灯火の朱。辺りにある灯台やかがり火の明るさとは反対に、庭の木々は未だ薄闇に包まれていて、望美はまだ陽が昇っていない事を知った。 「──おはよう、望美」 眠気を払いながら状況を追っている望美に、密やかな声がかけられた。 その声に振り向けば、几帳の陰から旅装束に身を包んだヒノエの姿。 「ヒノエくん。おはよ。……何かあった?」 彼の人の来訪と共に邸内に漂うどこか慌ただしい空気を感じ取り、望美は眉をひそめ問う。 普段のようにヒノエを見送る夜明けとは違う、少し張り詰めた空気。それだけの事が望美の勘に警鐘を鳴らして、すぐに身を起こすと着衣を整えた。 「それに、その格好も。どこか出かける用事? 何か手伝う事あるかな?」 これが以前から予定されている事だったとしたら、ヒノエは出かける旨を昨日のうちに教えてくれていた筈だ。それが無かったという事は、これが想定外かつ緊急な問題が起きたのではと結論づけた。 「相変わらずオレの姫君は慧眼だね。話が早くて助かるよ」 くすくす笑いながらヒノエは望美の頬に軽く口付ける。 そしてそのまま望美の瞳を覗き込み、口早に告げた。 「実は急ぎで出なくちゃいけないんだけど、お前にも一緒に来てもらいたいんだ」 「えっ、私……!?」 予想だにしなかった言葉に望美が驚く。 その叫び声を指先で素早く塞いでヒノエは続けた。 「──シッ。極秘の内容だからね、詳しい説明は後でするよ。今は急ぎ旅支度をしてくれるかい? 荷物は女房たちにやらせているからさ、お前は着替えを」 ヒノエの声音に含まれた焦りに、余程の事なのだろうと望美はぎこちなく頷く。 何が起こっているのか。自分がついていって邪魔ではないのか。そういった疑問を揺れる瞳に閉じ込めて、すぐさま用意に取り掛かった。 「お待たせ!」 久しく袖を通していなかった神子装束を着て外に出ると、ヒノエは既に馬上の人となっていた。 その彼が望美の姿を見て微笑ましげに目を細める。 「やっぱりイイね、その格好。普段の姿も綺麗だけどさ、凛としたお前にすごく似合ってる」 「……もぅ! そんな事言ってる場合じゃないんじゃないの? まだ事情だって説明してもらってないし!」 手放しの賛辞が照れくさくて、頬を薄く染めながら望美はそっぽ向く。 恥ずかしがり屋な彼女の反応に忍び笑いをもらしながら、ヒノエは馬上から手を差し伸べた。 「ふふっ、確かに姫君の言う通りだね。さぁ、望美」 「えっ。ちょ、ちょっと待って! 二人で乗るの? わ、私自分の馬用意してくるよ?」 「でもお前の馬はしばらく乗ってなかったろ? 爪の状態だって見てやらないとならないし……。今はその時間も惜しいからさ」 そうまで言われては従うしかない。望美は意を決したように差し出された手を握り返した。 グッ、と引き上げられる感触がして、気付けば彼のぬくもりが近い。しかしその熱が落ち着くより早く、ヒノエは馬を操り始めた。 「わわっ!?」 「口も閉じてないと舌噛むぜ?」 揺れる体に驚きながら、慌てて口を閉じて馬の鬣に掴まる望美。 風を起こし始めるヒノエの愛馬の背に、舎人や童子の見送りの声が向けられる。 「どうかご無事で……!」 「ご無事にお戻りを!」 「…………?」 彼らの無事を願う言葉はどことなく必死さを感じさせる。反対にヒノエはひどく楽しそうな様子で馬を操り、その差異に違和感を感じて望美は眉根を寄せた。 説明を求めるような視線をヒノエに向ければ、にやりと笑った彼は、愛馬に指示を出し速度を上げる。 「ホラ、しっかり掴まってないと落ちるよ?」 「………………」 望美の質問を封じた自覚は、きっと彼にもあるだろう。 ならば遠からず回答を得られる機会は来るはず。望美はそう自分を納得させ、今はヒノエの操る風に身を任せたのだった。 * * * * 「……そろそろ、状況を説明してくれる?」 細めた瞳をこちらに向け望美が質問してきたのは、馬を休ませようと手綱を引いた瞬間だった。 何事にも聡い我が妻は、さすが時期を計るのにも聡いらしいとヒノエは苦笑する。 「そうだね。強引にここまで連れて来ちまった理由を、まずは説明しないとね」 何となく予感がして、馬足は止めず、ゆるやかに進めたまま口を開く。 すぐ前に乗った望美は視線こそ前方に戻したが、こちらの声に集中しているのは明らかだった。 「──実は最近、鎌倉が龍神の神子の居場所について探っている動きがあってね……」 「えっ!?」 ヒノエの言葉が予想外だったのか、望美が小さく声をあげる。 「……何の為に?」 「さぁ? まぁ、予想はつくけどね。源平の戦を勝利に導いた女神。神と言葉を交わせる神子。──お前の価値を見出だそうとすれば限りが無い」 「そんな……。白龍だって今は空に帰っちゃって、私、話もできなくなっちゃったのに……」 望美の言葉に憂いが混じる。きっとその言葉を紡ぐ表情も、僅かに曇っている事だろう。ヒノエは慰めるように望美の腰を抱いた。 「連中にとっちゃ……」 彼女の柔らかな髪に口付けを落とし、ヒノエは続ける。 「お前が龍神の神子としての力をどのくらい使えるかはさほど重要じゃないのさ。様々な奇跡を起こしてきた龍神の神子が鎌倉に仕える。それが欲しいのかもね」 「………………」 黙る望美。今度は道具のように欲された事に腹を立てているのだろう。不快げな顔をしている事だって、わざわざ確認せずとも予想がついた。 そのムッとした顔を思い浮べ、ヒノエは望美にはわからないように小さく笑う。 「それで?」 見咎められている筈はないのに、間髪入れず望美が続きを促す。不意に訪れた緊張感に、ヒノエの瞳と頬に愉快そうな笑みが煌めいた。 「その鎌倉の間諜が、熊野に忍んできているって情報が入ったんだ」 その間諜から望美の存在を隠すため。それが望美を連れて邸を出た理由だとヒノエは伝えた。 「そうだったの……。だからあんなに急いで、極秘なんて言って出てきたの?」 「そういう事。悪かったね、ろくろく準備もさせないまま連れ出しちまって」 「それはイイんだけど……。ねぇ、他にも何か隠してる事ない?」 望美が振り返り視線がぶつかる。その深い瞳に鼓動をくすぐられながら、ヒノエはただにこりと微笑んだ。 「どうしてそう思うんだい?」 「だって、邸を出るときのヒノエくん、何だかご機嫌な顔してたんだもん。あんなに急に出てくる必要がある程なら、あんな風に楽しそうにしている訳ないもの」 静かに、だがしっかりと断言する望美。 「経緯はどうあれ、お前と外出できるのが嬉しいんだとは考えてもらえないのかい?」 「ホラそれ! 何か話を逸らそうとしてない?」 望美には一連のヒノエの行動にどうしても違和感が拭えない。鎌倉からの間諜。龍神の神子について探っている。それは事実かもしれないが、全体の一部のような気がして。 「ふふっ、ひどいね、望美は。オレがお前を守りたいと思っての行動を疑うんだ?」 「それはちゃんと信じてるし、嬉しいよ! けど、ヒノエくんならもっと簡潔に解決しちゃえるような感じがするの。らしくないって言うか……」 わざわざ慌ただしく望美の居場所を変えなくても。邸の人間を心配させるような情報を与えなくても。ヒノエならば知力と武力の両方を駆使してどうとでも誤魔化してしまえる筈なのだ。 「だから、ひょっとして、鎌倉の話は本題じゃなくて…………ついでなんじゃない?」 じろりとヒノエを睨んで問い詰める。しかし当のヒノエは黙して否定も肯定もしない。 「…………なら質問変える。これからどこへ行くの?」 「ふふっ、内緒。その方が面白いだろ?」 「またはぐらかした。じゃぁ今回の事、水軍のみんなにも了解取ってある?」 「……。無論、言ってきたぜ?」 常のように答えたつもりだったが、ヒノエの返答に望美は眦を吊り上げた。 「嘘!!」 ヒノエを見上げる瞳が苛烈さを増す。揺らめく炎のような強いその光に、ヒノエは一瞬状況を忘れて見惚れた。 「それ、嘘でしょ! 今ちょっと言葉に詰まったもんね!」 「……嘘だなんて心外だね」 彼女の洞察力は本当に侮れない。今ここで表情を動かしてしまえば嘘を肯定する事になるとわかっていたが、ヒノエは思わず苦笑を浮かべていた。 そうとう怒らせてしまったようだし、ここらが潮時かな? そう考えていた矢先の事……。 「まだ誤魔化す気? それならそれで、私にも考えがあるよ?」 考えを巡らせていた一瞬の隙をついて、望美がヒノエの手から手綱を奪った。 ゆるりと駆けていたヒノエの愛馬が、急な制止に不満げ嘶きに足を掲げる。が、一瞬ののちには望美を主人と認め、指示に従うべく進路を元来た道へ戻した。 「──おっと!」 あまりに艶やかな奪取劇に見惚れていたヒノエは、慌てて手綱を奪い返す。 「ホント、お前はイイ女だね。適わないな」 今の出来事が、ヒノエの心をひどく踊らせる。 一瞬の隙をつく俊敏さ。馬を操る手並み。実行に移す度胸。──どれをとっても、この世で二人として成しえない。 もし自分が誰かに負けるとしたら、それは望美以外にいないだろう。 「オレの負けだよ。ちゃんと説明するから、とりあえず走るのを再開していいかい?」 手綱を容易に奪い返された悔しさからか、膨れ面をしている望美。その頭を宥めるように撫で、ヒノエは言った。 「実は、お前が睨んだ通り、水軍の連中には了解取ってないんだよね。今頃置いてきた書き置きを見ているだろうし、連れ戻されたらコトだろう?」 自分を叱るでもなく、楽しげに言うヒノエ。その様子に少し戸惑いながら、望美はまだ不機嫌な風を装って聞いた。 「……連れ戻されるような事してるんだ?」 「まぁね。捕まったら怒られるかも」 「私も怒られる?」 「ふふっ、そうだね。お前には何も非は無いけど、ここまで来たら一蓮托生かな」 「……それは嫌だな〜……」 気が抜けたようにふと苦笑し、望美が掴んでいた手綱の端を離す。それを了解ととり、ヒノエは愛馬を元に戻した。 * * * * 「──で、どうしてこんな事したの?」 ゆっくりと走りだす馬の背で、望美は舌を噛まないよう注意しながら問い掛けた。その声が質問というより詰問に近かったのは、彼が自分に嘘をついた事をまだ少し怒っているからだ。 「ちょっとね、お前と出かけたかったんだけど、時間が取れそうになくてさ」 だから無断で出てきたんだ。事もなさげに言うヒノエ。 「えっ!? だ、大丈夫なの、そんな事して!? 仕事は!?」 「まぁ、何とかなるんじゃない?」 「そんないい加減な……。それに、私と……って?」 「ふふっ。明日は何の日か覚えてるかい?」 「明日?……あっ」 明日──四月六日は望美の誕生日。 つい数日前のやり取りを思い出しながら振り返ると、そこには優しい笑みを浮かべたヒノエの顔。 「花見をする約束。だろ?」 馬上で器用に望美の顎を掬い取り、ヒノエは彼女の頬に口付けを落した。 濡れた唇の触れた箇所が、風に触れてひやりとする。その冷気はわずかに温度が上がった頬に妙に艶めかしくて、望美は照れたように両頬を押さえた。 「そんな……。私、お庭でいいって言ったのに……」 「そうだったかな? オレはお前が『期待してる』って言ってくれたと記憶してるけど?」 だからそれは話の流れで……。望美は言い訳のようにもごもごと呟いたが、ヒノエは気にした風もなく望美を抱き寄せる。 「婚儀を挙げて以来、ずっとお前とゆっくり過ごす機会がなかったからね。そろそろ機会を作ってもイイ頃だろ?」 彼女の表情を伺うと、望美はまだ照れたような困ったような顔をしている。きっと機会を喜ぶ気持ちとヒノエの仕事を心配する気持ちの間で葛藤しているのだろう。 やがて望美は、その複雑な表情と同じく複雑そうな声で問うてきた。 「……ひ、日帰りだよね?」 「いや、馬と徒歩で往復十日ほど」 「そ! そんなにッ!?」 目を見開いた望美がくらりと馬上で傾ぐ。 それを慌てて支えながら、ヒノエは愉快そうに笑い声をたてた。 「ふふっ、さっきまでの勇ましい様子はどこへ行ったんだろうね?」 「だ、だって、往復十日って、その間ずっと邸を留守にするって事でしょ? いいのそんな事して? それに……十日もどこへ行くつもり?」 「行き先は内緒だって。さっきも言ったろ? その方が面白い、ってさ?」 とりあえず熊野は出るけど。そう呟くように言うと、ますます望美は瞳を見開く。 「く、熊野から出るの!?」 「そりゃ、お前を鎌倉の目から隠すのも目的の一つだからね。……ふふっ。その顔は鎌倉の事忘れてたね?」 「忘れてマシタ……」 本当の訳を話すと言われてからは驚きの連続で、当初説明された話題などすっかり忘れていた。その理由は本題のうちの一つと断じたのは、他ならぬ自分だというのに。 様々な気持ちが巡り混乱していると、背後に座るヒノエが望美の肩に顎を置いてきた。 「──お前は、オレと過ごしたくはない?」 耳に近く響く声に、望美ははっと顔を上げる。 「オレはお前と過ごしたいよ? お前とオレとで救ったこの世界を──春の息吹を感じる時を今、一緒に過ごしたい」 お前はどうだい? そう春風のように問われては、望美の返せる言葉は一つしかない。 「……ズルい」 どうせヒノエにはもう、望美が返す言葉はわかっている事だろう。だからそれをそのまま伝えるのが癪で、望美は文句を言った。 「本当にヒノエくんはズルいよね。どうせ私が何も言えないでいると、『そんなに気が乗らないなら、残念だけど諦めるかい?』とか言うんでしょ? 帰る気なんか全然無いくせに! どうしても私に返事を言わせたいんだよね!」 拗ねた口調でこうブチブチと文句を言われては、さすがのヒノエも苦笑いするしかない。 「そこまでわかっているなら……お前を想ってやまない夫へ、優しい応えの一つでも与えてくれないかい?」 その言葉に僅かな哀願の色が混じっているのを感じ、望美は不思議な気持ちでヒノエに振り向いた。 「……そんなに私と過ごしたいの?」 これでは普段の立場とは逆だ。その事が新鮮で、望美は瞳を輝かせ問い掛ける。 「ああ、過ごしたい。お前と花見をしたいのはもちろんだけどさ、お前の誕生日を祝う時間が欲しいし、お前の喜ぶ顔が見たい。たくさん話もしたい」 意外なほど真面目に、そして素直な言葉で応えられては、先程までの怒りや拗ねた気持ちなどどこかへ吹き飛んでしまう。 本音を言えば、まだ僅かにヒノエの役目や仕事を心配する気持ちも残っている。だけど今は、立場に縛られない「ヒノエ」というただ一人の傍に居たい。 「そこまで言われちゃ仕方ないよね。あとで私も一緒に怒られてあげる!」 わざと尊大に言い放ち、望美は背後に乗るヒノエへ体を預けた。上目遣いに彼を見上げ、頬を染め心からの笑顔を浮かべる。 「……本当はね、一緒にお花見できるのすごく嬉しいんだ」 この気持ち、言わなくても彼は知っているだろうけど。 だけどこの気持ち、とても言葉に出して伝えたいから。 「だから…………ありがと」 |
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