欲しいのはあの人のぬくもり
コンコンと石造りの扉を叩く音に、アシュヴィンは竹簡に落としていた視線を上げた。 「あの……アシュヴィン? 入っていい?」 遠慮がちに告げる声は我が妃のもの。入室を許可する言葉を返すと、声色の通りにおずおずと千尋が入ってきた。 「どうした? やけに大人しいじゃないか」 「うん、ちょっと……。まだお仕事してたんだね」 「まぁな、明日までに目を通しておかないと、手間取る事になりそうなのでな」 「そっか……」 胸の前で両手を組んだまま、千尋はアシュヴィンのいる執務机まで歩み寄ってくる。 その様子がどことなく不安げに揺れているようで、アシュヴィンはぴくりと眉を上げた。 「……どうした?」 「えっ?」 「いつもと様子が違うな。何か気がかりでもあるのなら話せ。中つ国で問題でも起きたか?」 「えっ!? そ、そんな事は起こってないわ。どうして?」 「どうしてって、お前な……。そんな様子で俺の所に来るから、何事か起こったのかと思ったぞ」 常世の皇妃でありながら中つ国を治める王である千尋がこんな様子なのだ、何か事件でも起こったのかと勘ぐるのは当たり前だ。 逆に驚いた風の千尋に、アシュヴィンは苦笑と共に安堵の吐息を漏らした。 「まぁ、いい。事件が起こった訳ではなさそうだ」 「……ご、ごめん。中つ国は大丈夫、問題ないわ。その事じゃなくて……」 千尋は否定しながら、今度は衣の裾を手持ち無沙汰に弄りだした。 「なら何だ? 言いたい事ははっきり言え」 「うん、その……。ご、ごめん、やっぱり何でもないっ!」 しばしの間悩んで、結局千尋は背を向けた。 煮え切らない態度に思わずアシュヴィンが呼び止める。 「あ、おいっ! 待て、千尋!」 とっさだった為か、思っていたより大きな声で呼び止めてしまった。千尋が足を止める。 アシュヴィンは手に持っていた書簡を机に放り投げ、苦笑を浮かべながら千尋を手招いた。 「千尋、こちらへ来い」 「………………うん」 先ほどは背を向けたくせに、アシュヴィンの呼び声に千尋は素直に従う。 真っ直ぐと伸ばした背筋は凛としているが、不安げな様子のままの千尋は風に揺れる笹百合の花のようだった。椅子に座るアシュヴィンの真横まで来て立ち止まる。 その彼女へ向き直って、アシュヴィンは細い腰に腕を回した。引き寄せられた千尋の体重がかかって、アシュヴィンの座る椅子がギシッと鳴る。 千尋の頬をそっとなぞりながら、アシュヴィンは優しく瞳を覗き込んだ。 「本当に何でもないのか?」 「う……。そ、その、急ぎじゃないから……。アシュヴィン忙しそうだし……」 「やる事はあるが、大して忙しくは無い。それに、今の状態でお前が行ってしまう方が問題だな。仕事が手につかなくなる」 「ご、ごめん……」 「詫びはいい。それより何を言いに来たのか、話してくれないか?」 「…………うん」 曇りがちな表情に躊躇いを残したまま、千尋はアシュヴィンの額にコツンと自らの額をつけるようにして頷いた。 「あの、さ。アシュヴィン、どこか具合が悪いとかない?」 「は?」 千尋から告げられた言葉は、アシュヴィンにとって完全に予想外の内容だった。 確かに最近忙しくしてはいたが、国を平定した後ほど多忙ではない。国の混乱は落ち着きを見せていて、近頃では夜通し執務をする事も無くなった。 もしかして今の自分は顔色でも悪かっただろうかとアシュヴィンが疑問を感じ始めた瞬間、千尋がパッと額を離して顔の前で両手を振った。 「あっ! べ、別に元気ならいいの! そ、それだけなの!」 「本当にそれだけか? まったく、お前はいつでも唐突だな」 「ご、ごめん……」 「ははっ、先ほどから謝ってばかりだ」 微かな笑みを浮かべて、アシュヴィンは千尋が離れた分を再び引き寄せた。 不安や後悔や混乱や──他にもいろいろ混じっていそうな千尋の頬に手を添え、優しく撫でる。 「何がお前をそういう行動に移させたか、言ってみろ」 低く落ち着いた声音に、千尋は上目遣いに彼を見て戸惑いがちに口を開く。その様子は、怒られはしまいかとビクビクしている子供のようでもあった。 「言っても……笑わない?」 「ああ」 「本当に?」 「笑わない。いいから、言ってみろ」 自分しか映していないアシュヴィンの瞳に促されて、千尋は話し始めた。 「──夢を、見たの」 「夢?」 「うん。アシュヴィンが高熱を出す……夢」 それだけなんだけど…。と、千尋の声は不安げに消えていった。 本当に、ただそれだけの事。 それだけの事なのに、何故か無性に不安になって、アシュヴィンに会いに来てしまった。 もう少し寝室で待っていれば彼は帰ってきてくれたのだろうに、それさえも待てずに。 「成る程な。お前は俺が心配で、思わず会いに来てしまったという訳だ」 「…………うん」 「ははっ、いつぞやの時、心配をかけないと約束しなくて正解だったな」 「えっ?」 「俺が何をしなくとも、お前は俺を想っていつでも心配が止まないようだ」 「なっ!!」 瞬時に頬が染まったのは、憤慨か、それとも恥じらいか。 わざわざ彼女に問い掛けなくても、アシュヴィンはその答えを十分に知っていた。 「違うか? いや、違わないだろう? お前の心など、俺には手に取るようにわかる」 いつでもお前の事を考えると約束したからな。そういってアシュヴィンは笑う。 慈しみに溢れた彼の笑顔を見て、拗ねてしまおうと思った千尋は考えを変えた。 「……うん、アシュヴィンが好きだから、小さな事でもすぐ不安になる……」 素直な気持ちを吐露しながら彼に抱きつけば、困ったようなアシュヴィンの声が。 「ふっ、今日はやけに素直だな。だが、そんなに素直になられては、俺が困るな」 「困る? どうして?」 「──お前をさらって、二人きりの時を過ごしたくなる」 「っ!」 言葉が最後の音を奏でるなり、アシュヴィンに唐突に口付けられ、千尋は反射的に身を引いた。が、すぐにその甘いぬくもりに酔いしれ、自らも唇を重ねた。 幾度となく口付けを交し合って、唇を離すと同時に千尋はアシュヴィンに抱きついた。彼の逞しい腕が背に回るのを感じ、ほっと安堵の吐息を漏らす。 「ごめんね。私、子供みたいね」 「たまにはいいさ。そんなお前も存外悪くない」 アシュヴィンの軽やかに笑う声と振動を感じながら、千尋は静かに瞳を閉じる。 しばしの時をただ彼のぬくもりを覚える為だけに使用して、ゆっくりと体を起こした。 「大丈夫か?」 「うん、もう大丈夫。ごめんね」 「悪くないと言っただろう? 謝罪はいらん」 「じゃ、ありがとう」 やっと笑顔を浮かべた千尋に、アシュヴィンは満足げに頷いた。 「さて、名残惜しいが先にやる事をやってしまうか。そう時間はかからんから、退屈を持て余して眠ってしまったりするなよ?」 「しないよ。ちゃんと待ってる」 再び竹簡を広げ始めたアシュヴィンに、千尋は笑って頷いた。 「じゃぁ、先に戻ってるね。あ、それとも何か手伝う事がある?」 「いや、大丈夫だ」 「そう? 何かあったら呼んでね?」 「ああ、わかった。…………ああ、そうだ。一つだけあるな」 千尋を送り出しかけ、アシュヴィンはふと思いついて千尋を呼び止めた。 「何? ──んっ!」 手伝う事があるのかと彼に近づいた瞬間、顎をさらわれて再び口付けられた。 鳥の羽根のような軽い口付けを一つだけ交わし、唇が離れる。 突然の出来事に瞳を丸くしている千尋に、アシュヴィンがにやりとした笑みを見せつける。 「忘れるなよ。ぬくもりが恋しいと思っているのは、千尋、お前だけじゃない」 「……もぅ」 彼の飄々とした笑みを見て、千尋は怒ろうと思っていた表情を苦笑に変えた。 愛の言葉など気恥ずかしくて言えない。常々そう公言している彼なのに、時々はっとするような甘い言葉をくれる。 それだけで嬉しくなって、不安も何もかも吹き飛んでしまう自分は、なんと現金な事だろう。 今日は素直だと先ほど言われたばかりだが、今感じた喜色を素直に表に出すのは何だか癪で、千尋はわざと尊大に言った。 「もぅ! 他には無い? じゃぁ私先に行くからね! アシュヴィンもちゃんとお仕事終わらせてから来てね!」 「ああ、すぐに行く」 アシュヴィンの頷きを聞きながら扉に向かい、千尋はあえて早々と執務室の外へ出た。 そうしないと、しっぽを振る犬のように、嬉しい気持ちが溢れてしまいそうだったから。 執務室の扉をしっかりと閉めて、千尋は呟いた。 「もぅ、アシュヴィンのバカ……!」 だが、その頬には幸せそうな笑みが刻まれていた。 |
〜あとがき〜 色々誤魔化した感たっぷりですが、まだ要修行中なんで多めに見て下さると全力で嬉しいです(死) 古代的日本語にもっと堪能だったらいいのに、な。 ちなみに、アシュ千は元気一杯に夫婦喧嘩しているのとかも好きです。是非リブとかシャニを巻き込んで盛大に!(爆) でもアシュがひたすら優しいのもいいかもな、と思って書いてみました。 なおなお、この話は主催してる会員制サークルに投稿した話ですが、ちょっと改訂した話を近いうちに書いてみたい感じです。 |
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