眠りから醒めて

 気泡が水面に顔を出すように、千尋は意識を覚醒させた。
 薄暗い室をぼんやりと視界に映して実感する。
(──そっか、風邪を引いたんだっけ……)
 “連日の政務で疲れが蓄まっていたのでしょう”
 朝、起き上がれない事を自覚した千尋に、側仕えの皆はそう言ってくれた。だが何の事は無い、自分の限界を計り損ねただけだ。
(……情けないなぁ……)
 もうすぐ常世に来て初の冬が来る。まだまだ復興途中にあるこの国には、氷の息吹が訪れる前にやらねばならない事が山積みだというのに。
 千尋はごろりと寝返りをうちながら、周囲へと耳を傾けた。
(……すごく…静かね……)
 皇后の休息を邪魔しないようにと人払いされた自室。その静けさはどこまでも澄んでいて、だがそれは千尋に苦い記憶を呼び起こさせるものだった。
 掛布の中で己をきゅっと抱きしめる。
(なんだか、小さい頃に寝込んだ時と似ているわ)
 橿原宮で。幼い頃に。
 寝込んだ自分を周囲はいつも以上に遠巻きにし、独り茵で泣いていた。それは風早と出会うずっと前の出来事。
 今でこそ、患った病が伝染病だった為と理解できているが、普段心を砕いてくれた姉姫でさえも来てくれなかったあの時、自分は孤独を涙に変えることしかできなくて。
(…………こういうの、苦手……)
 昔の記憶のせいで、今でも独りきりになるのは少し苦手だ。千尋は幼子のように背中を丸めた。
 体中が重い。思考が霞がかったように透明でないのは、きっと熱が高いせいなのだろう。侵されてはっきりしない意識が、千尋を再び眠りの淵へと誘おうとする。
 こんな感傷に捉われている時は、いい夢など見られない。そう思って眠りを拒もうとした千尋は、冷たい空気を求めて熱い手を掛布から出した。
「──おい、千尋?」
「…………えっ?」
 冷たい空気ではなく温かいぬくもりに手を握られ、千尋は驚いて目を見開く。
 すると夫でありこの国の主であるアシュヴィンが、瞳を瞬かせた自分を見下ろしていた。
「アシュヴィン……どうして……?」
「どうしてとはご挨拶だな。お前が寝込んだと聞いて、様子を見に来たというのに」
 きょとんとした顔が面白かったのか、アシュヴィンは心配を含んだ顔に笑みを浮かべた。
「え? あ…れ?」
「全くお前は……。随分と調子を崩しているようだ、どれだけ無理をしたんだ?」
「え〜と……ご、ごめん」
「詫びはいい。俺も気付けなくてすまなかった。視察より戻って、先程聞いたばかりなんだ」
「……えっ?」
 彼の言葉に千尋は再び驚く。そして心を静めようとしながら辺りを見回すと、窓の外に沈んだばかりの陽の残り香が見えた。
 先程までは確かに青かった風景を見ながら、ポツリと千尋が呟く。
「私……寝てた?」
「そのようだな。何かを探すように手を伸ばすから、水差しでも握らせてやろうかと思ったが」
 寝台に腰かけながら、くっくっくっとアシュヴィンが喉の奥で笑う。
 眠りを拒むばかりか寝呆けてしまっていた事に、千尋は赤面して掛布にもぐりこんだ。
「……はずかし……」
「何がだ?」
「寝呆けるなんて私、子供みたい」
「ははっ。確かにお前は、稀にそういう時があるな」
 大抵は弱っている時や落ち込んでいる時。そんな千尋を見るたび、アシュヴィンは内心を焦燥に駆られる。
 彼女がどのような過去を経て女王になったのか、アシュヴィンは人聞きの話しか知らない。
 千尋の事ならばどんな小さな事でも知りたいと思うが、本人が自ら話そうとしない事を自分から聞き出す事はしたくなかった。
 ただ、千尋が心細くなった時には、自分がその濁りを僅かでも溶かしてやれたらいい。アシュヴィンはそう願わずにはいられない。
「……熱は、まだあるのか?」
 アシュヴィンは汗で貼りついている前髪を除けてやり、その額に触れる。
 自分の熱が高いせいでひんやりとしたアシュヴィンの素肌に、千尋は気持ちよさげに瞳を閉じた。
 ──珠雫の浮く額は、夏の日差しよりも熱い。
 千尋を蝕む熱を感じて、アシュヴィンは眉根を寄せた。
「……あまり無理をするな」
「うん、ごめん。それから、執務も休んじゃって……ごめんなさい」
「どうという事はない。官人たちもお前の負担を軽減しようと張りきっているしな。──存外お前が適度に疲れていた方が、執務がはかどるかもしれん」
 冗談混じりに言うアシュヴィンがおかしくて、千尋はくすくすと笑う。
「あ、ねぇ、アシュヴィンは? まだやる事あるんじゃない?」
 視察から戻ってすぐに来てくれたらしいアシュヴィン。これから視察状況をまとめたり対策を考えたりがあるだろうに。
「私の事はいいから、戻って?」
「………………」
 心配ないと笑う千尋を見て、アシュヴィンは人知れずため息をついた。
 こんな顔で微笑んで、千尋は安心させているつもりなのだろうか?
 幼い頃、千尋が母に疎まれていた事はアシュヴィンだって知っている。その淋しそうな笑顔は、誰よりも孤独に怯えているというのに。
「アシュヴィン?」
 表情を曇らせたアシュヴィンに、千尋が首を傾げる。
 何故こんな時まで他人を思ってばかりなのか。たまには我儘に願ってほしい気持ちを仏頂面に乗せ、アシュヴィンは不機嫌な声で告げた。
「我が妃は……存外人使いが荒い」
「えっ!?」
「視察から戻ったばかりの俺に、休息も取らずに仕事しろとはな」
「そ、そんなっ。私そんなつもりじゃ……」
 慌てて否定する千尋をジロリと睨み、アシュヴィンは続ける。
「なら、俺がしばらくここで休んでいようと、文句はないな?」
「な、ない…けど……」
 そう答える千尋に満足そうに頷いて、アシュヴィンは寝台の背もたれへと腰かけ直した。
 未だ握ったままの手に力を込めて、安心させるように言う。
「……お前が眠るまで、ここにいる」
「アシュヴィン……でも……」
 この期に及んでも千尋は、迷うように視線を彷徨わせていた。握られた手とアシュヴィンの表情とを交互に見つめる千尋に、少々イラつきながら聞き返す。
「でも?」
「か、風邪が移っちゃうんじゃ……──ッ!?」
 心配する千尋の言葉を、アシュヴィンは己の唇で遮った。僅かに求めた後、唇を離して傲慢に言い放つ。
「下らん。俺がそんなに貧弱に見えるのか?」
「そっ、そういう訳じゃ……も、もぅ! いきなりこんな事するなんて……本当に風邪移っても知らないから! 私もう寝る!!」
 唇を押さえ、頬を一層赤くしながら千尋が叫ぶ。そのまま背を向けて掛布に潜り込んでしまった千尋に、アシュヴィンは近づいて囁いた。
「ゆっくり休め。お前には俺がいる」
 お前の傍には俺がいる。
 孤独の影からは俺が守る。
 だからもっと、こちらに寄り掛かって欲しいのだと、アシュヴィンは千尋に伝えたい。
 しかしそれを伝えるには自分はあまりにも不器用すぎる。だからこそ、言葉で足らない部分はぬくもりで示して。
「俺が、傍にいる」
 掛布から僅かに覗く絹糸の髪に口付けを落としながら、アシュヴィンは妻に囁く。
 そのまま時が止まってしまうかにも見えたが、しばしの間を置いて千尋が繋いだままの手をきゅっと握り返してきた。
「…………ありがと」
 小さな呟きにアシュヴィンも握り返す事で応える。
「……傍に、いてね?」
「ああ」
「私が寝るまでね?」
「ああ。お前の傍にいる。ずっとな」
 これから先も、傍に。

 

〜あとがき〜
 なんだか皇后陛下を幼児退行させてばかりのような気がします(台無し発言)
 でも何となく、千尋さんは歴代神子の中で一番寂しがりやな気がしてならないです。そのくせストイックなところも一番なイメージ。
 で、その千尋さんに甘えてもらえない黒雷陛下が、イライラして「あーもー! お前俺に甘えろ! 今すぐ!!」的にキレると可愛いんじゃないかと思います、まる。

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