想いを告げる日

 回廊に灯された小さな燈も数を減らす深夜。
 薄闇に覆われている回廊を千尋は迷いのない足取りで彼の人の執務室に向かっていた。
「あ、明かり点いてる……」
 目指す室を見つければ、戸から零れるはかすかな明かり。
 国を平定してまだ数日。常世の国も中つ国もまだ混乱が収まっておらず、夜が更けてもこの根宮が完全な眠りに沈むことは未だ無い。
 千尋は扉代わりの紗布をそっと除けて、その室に足を踏み入れた。
「千尋か……?」
 人が入室する気配を感じたのだろう。室の主が手元の書簡から顔を上げずに呟くように言った。
「何か用か?」
「ううん、別に。ここにいたら邪魔かしら?」
「いや、大丈夫だ」
 返事にくすり、と小さな笑い声が重なる。
 千尋がこうして尋ねてくるのは時々ある事なのだが、尋ねる理由は「最近会えなかったから」とか「寂しかったから」という場合だったりする事が多い。もちろんそれが尋ねた理由だと言った事は無いのだが、変な所で聡い彼にはバレバレのようなのだった。
 今笑ったのもきっと、いつまでも子供っぽい妃だと思ったのだろう。現に今も「仕方のない奴だ」という表情をしているし。
(……今回は違うのに……)
 普段甘えてしまっている手前、恥ずかしさにほんのり頬を染めながら千尋は唇を尖らせる。とはいえ、抗議をして改めて来訪の理由を聞かれでもしたら、その理由を答える心の準備がまだできていない。
 どうしたものか。低く唸って考え込んでいると、やっと卓上から視線を上げたアシュヴィンに、怪訝そうな瞳を投げられてしまった。
「どうした、唸ったりして? 具合でも悪いならこんな所に来てないで早く休め」
「違います! 別に具合が悪い訳じゃなくて……」
 慌てて手を振る千尋に、アシュヴィンはまたも小さな笑いを溢す。
「ふ、その様子では確かに体調が悪い訳ではないようだな。……どこか座るなら、悪いが適当に片付けて場所を作ってくれ」
「あ。え、えぇ……」
 あっさりとその話題に終止符を打たれ、いかんともしがたい表情で千尋はため息をついた。
 こんなことなら入室した時に用件を切り出しておけばよかったかも。つい普段のように用事は無いと答えてしまった事を軽く後悔した。
(けど、今さら何て話かけよう……。急ぎって訳じゃないし、仕事の手を止めさせたくないし……)
 千尋はちらちらとアシュヴィンの方を盗み見ながら、長椅子の上に積まれた書簡類の整理を始める。簡単に片付けて場所を空けると、その空間に腰を下ろした。

 ──彼に、今日のうちに伝えたい言葉がある。
 それは中つ国の習慣でも常世の習慣でもなく、自分の自己満足の。
 本当は贈り物をしたかったのだけど、用意する時間が無かったからせめて言葉を──。

(な、何かドキドキしてきたわ……)
 近くの書簡から適当なものを選んで読むフリをしながら、千尋はアシュヴィンの姿を追う。彼が書簡を確認し筆を入れていく音はとても静かで、ともすれば自分の心音のが大きく響いてしまいそうだった。
「……何だ?」
 アシュヴィンの不意の言葉に、どきりと千尋の心臓が跳ねる。
 そんな千尋を知ってか知らずか、アシュヴィンは続けて告げた。
「やはり話す事があるのだろう? 聞いてやるから言え」
「えっ、あっ、その……。おっ、おかまいなく!」
 不意打ちにかろうじて返事をしたものの、返した言葉のマヌケぶりに少し落ち込む。しかしアシュヴィンは朗らかに笑った。
「ははっ、何だそれは。何を遠慮しているのかは知らないが──。…………いや。それとも、言いづらい知らせか?」
「そ、そんな事はないわっ!」
「本当に? 存外、結婚を解消したいとでも言いだすつもりじゃないだろうな?」
「なっ!? そんな訳ないじゃない!!」
 夢にも思わなかった事を真顔で問われ、千尋はぎょっとして叫んだ。千尋のその驚きぶりに、アシュヴィンは小さく安堵の吐息を零す。
「そうか。それは良かった」
「……もぅ、アシュヴィン、意地悪よ!」
 今度は唇を尖らせる程度では収まらず、思いきりむくれた顔をする千尋。それを見た彼は苦笑しながら卓に頬杖をついた。
「お前がいつまでも話をせんからだ。愛しい妃にそんな態度をとられては、また何か怒らせたのではと心配の一つや二つする」
「うっ。……それはその、ごめんなさい……」
 そんな風に言われてしまっては、不審な態度をとっていた自覚のある千尋としては、それ以上彼を責めることはできない。
「謝るな。これて相子だ。……それで、話はどうするんだ?」
「えっ?」
「やはり話があるのだろう? まぁ、今でない方がいいなら無理には聞かんが……?」
 椅子の背凭れに身を預け、腕を組ながらアシュヴィンが問う。
「えっと……。そんな大した話じゃないのよ? 急ぎでもないし……」
 話を聞く態勢になってくれた彼を嬉しく思う気持ちと、いざ伝えなければと思うとドキドキが甦ってきて狼狽える気持ちと。気持ちが前進と後退を繰り返してしどろもどろになってしまう。
 迷っているらしい千尋を見て、アシュヴィンは人知れず嘆息した。まったく、我が妻ながら世話の焼ける。
「──少し休憩でもするか」
「えっ?」
「今、丁度キリが良い所なんでな、少し一息入れる。リブはもう下がらせてしまったから、お前が何か茶でも入れてくれないか?」
「えっ、いいの?」
「俺が頼んでいるのだがな……」
 先程まで戸惑っていたくせに、茶を入れろと頼んだ途端に嬉しそうな顔を見せる千尋。アシュヴィンは苦笑混じりの笑みを浮かべ続けた。
「お前も付き合うだろ?」
「え? あ、うん。そうね。ご一緒するわ」
 女官に熱い湯を持ってくるよう申しつけながら、千尋が笑顔で頷く。
「……共に茶でも飲めば緊張も弛み、何か面白い話でも聞けるかもしれんしな」
 アシュヴィンの言葉にぎくりとした千尋が振り返ると、彼は椅子に凭れたままにやりと笑う。
「ふふ。お前はもう少し、考えが顔に出ないようにした方がいいんじゃないか?」
「失礼ね! これでも官の前ではちゃんとしてるんだから!」
「わかっている。……俺の前だけ、だろ?」
 そんな風に涼しげな視線で流し見られてしまえば、途端にまた心拍数が上がってきてしまう。しかし悔しい事に彼の言うことは事実で、今まさに彼の前で心を持て余している自分がいる。
 今自分はどんな表情をしているのだろう? どんな感情を彼に知られてしまっているのだろう? もしかしたら、これから彼に伝えたいと思っている言葉も、とっくに予想されていれかも。──そう思ったら、照れくさくはあったけれど、急に気持ちが落ち着いてきた。
(悔しいけど、アシュヴィンには適わないわ、私……)
 悔しくて、嬉しい。複雑だけど、そこにあるのは確かに幸せな気持ち。
 女官が持ってきてくれた湯を茶器に注ぎ、ふわりと立ちのぼる香りを堪能しながら丁寧に入れていく。愛しく思う気持ちをたっぷり込めた茶を杯に注いで、千尋は卓を片付けて待っているアシュヴィンの元へと運んでいった。
「どうぞ?」
「あぁ、悪いな」
「ふふっ、どういたしまして」
 自分の分は彼の隣に場所を空けてそこへ。室の隅にあった椅子も持ってきて置いた。
「何だ? 茶を飲む前から既に落ち着いてしまっているのか?」
 ゆったりと椅子に腰掛ける千尋に、アシュヴィンがからかうような視線を投げてくる。千尋はペロッと舌を出して悪戯な微笑みを浮かべた。
「そうみたい。私、お茶入れてる時って落ち着くから」
「つまらんな。もう少し挙動不振なお前を見ていたかったのだが?」
「どうせ貴方の前だと私、しょっちゅう変になってるんだから、その時また見ればいいでしょ?」
「……一度落ち着くと途端に動じなくなる奴だ……」
 呆れたようにため息をつきながらアシュヴィンが卓に頬杖をつく。
 その彼が杯に口を付けるのを待って、千尋は口を開いた。
「あのね、私が前に居た世界でね、バレンタインって行事があったの」
 懐かしい世界。一時とはいえ、思い出の大部分がそこにあり、たくさんの人たちと過ごしたあの世界。
「ほう?」
「その行事は女の子が好きな男の子にチョコ──お菓子を贈って、自分の気持ちを告白するって日で……」
「…………」
 杯の中の濃琥珀色から顔を上げると、探るような視線でこちらを見る瞳とぶつかる。その彼が眉をぴくりと上げ促すのに従って、千尋は続けた。
「私ね、その世界では好きな人がいなかったから、いつも風早や那岐に義理チョコ……お世話になってますって印をあげた事しか無くて、告白ってした事無かったの」
 そういえばお茶の濃い琥珀色はチョコレートに似ている。時間が無く贈り物が用意できなかった千尋には、嬉しい偶然だった。
「でも、私にもやっと好きな人ができたから、その……気持ちを伝えたくなってね……」
 言葉が止まる。次に紡ぐ台詞が照れくさくて、思わず俯いてしまった。手の中のぬくもりを握りしめる。
「えーと……その」
「…………」
 彼が何も言わない沈黙に緊張感が高まる。千尋は想いのたけをぶつけるように、勢いよく一息で告げた。
「わ、私は貴方が好きです! ずっと側に居てください!」
 やっと伝える事ができた言葉。頬が熱く火照っていくのを感じる。
 しかし告白された彼はというと、杯をコトリと置いて長い長いため息をついた。
「アシュヴィン……?」
 予想外の反応に眉根を寄せつつ視線を上げると、椅子に凭れつつ額を手で押さえて不機嫌そうにしている彼がいた。
「…………お前な……」
「え?」
「何が大したことない、だ! こういう話なら勿体ぶらずにとっととしろ!」
「え? あの? え?」
 告白をして何故怒られるのかわからない。
 しかし彼はどうやら本気で怒っているらしく、千尋はおそるおそるといった風にアシュヴィンを伺い見た。
「あの……怒ってる、の?」
「怒ってなどいない。不貞腐れてはいるがな」
「え、ふて……?」
 不貞腐れている。その言葉の意味が、一瞬わからなかった。
「アシュ……?」
 戸惑い伺うような千尋の視線に、額を押さえた手の影からアシュヴィンは視線を投げる。もう一度ため息をついてから、不安そうな千尋に告げた。
「……お前からのその言葉を、俺がずっと待っていたのだと言ったら…………お前は信じるか?」
「え、えぇっ!?」
 アシュヴィンが。自分からの告白を待っていた。……はっきり言ってしまうと、信じられない事実だ。しかし政略結婚とはいえ婚儀を挙げてもう大分経つ。こういう時の彼は大概にして大真面目であると千尋も最近わかってきた。
「あの…………本当に?」
 それでもやっぱり俄かには信じがたくて、千尋は思わず確認してしまう。すると彼は仏頂面で頷いた。
「ああ」
「……どうして?」
「どうしてって、お前な。俺が心配だ何だと言う割に、お前は俺に対して好意をはっきりと口にした事はなかったろう? 俺はてっきりただの同情だと思っていたぞ。お前は情が深いからな」
「なっ!? 同情なんかじゃありません!! アシュが鈍感なだけでしょ!」
「…………それは否定せんが……」
 バツが悪そうな顔で苦々しく肯定する彼に、千尋もつい口を噤む。二人して一瞬無言になった後、どちらからともなく噴き出した。
「ふっ……」
「ふふふっ……」
 一度笑い出してしまうと止まらなくて、皇の執務室にしばし笑い声が広がる。千尋は目尻に溜まった一滴を拭い言った。
「つまり、私たち似た者同士?」
「そのようだな。まったく、似合いの夫婦だ」
 似た者同士で確かに似合いの夫婦かもしれないが、似た所が所なだけにこのままで、と受け入れられないのが辛いところだが。
「……これからは、お互い思っている事はなんでも口にしていくようにしなければな。態度に出したくらいでは伝わっていない事……まだありそうだ」
「ふふふつ、そうね。私もそうする」
 仕方の無い人だ、お互いに。千尋も苦笑混じりにくすくすと笑う。
「あ……なら、今ちょっと聞いてもいいかしら?」
 今ならば聞いてもいいかもしれない。ずっと抱いていた疑問。
 千尋がそう尋ねると、彼は茶杯に手を伸ばしながら頷いた。
「何だ?」
「あの…………わ、私のこと好き?」
 聞いた瞬間、アシュヴィンは口に含んだ茶で盛大にむせた。
「だ、大丈夫?」
「……お前……。何だってそんな事を聞くんだ」
「だ、だって、伝わってない事あるかもって話したばかりじゃない!」
「だからってわざわざ今聞く事か? 今までの会話でわからない方が変だろう!」
「でも、思ってる事は何でも口に出そうって言ったじゃない! 私だって、アシュヴィンに嫌われてるとは思ってないけど──ッ!」
 勢いよく捲くしたてていた千尋の声が、急に小さくなる。
「……わ、私たち、政略結婚…だし……ッ」
 千尋の瞳に不安げな色が浮かぶ。アシュヴィンを好きだと思うのと同じくらい、彼に好きになってもらいたいと思う自分がいて……。
 ──彼の、今の気持ちが知りたい。
 涙が出そうになってきて、千尋は思わず俯こうとする。しかしそれよりも早く、彼の手に顎を捕まえられた。
「──っ!!」
 唇に温かな感触が重なり、口付けられた事を知った。
 彼の薄い唇が十分なぬくもりを移して離れる。その離れていく様を茫然と眺める千尋に、アシュヴィンは少し照れたように視線を背けた。
「お前と違って、俺はなかなか想いを口に出せそうには無い」
 だから今はこれで勘弁してくれと、アシュヴィンは珍しく自信無さげな表情で言った。
「……ズルいんだから」
 初めて口付けを交わした事実に、今になって赤面しながら千尋はむくれる。そして彼の胸板にぽすっと額から寄りかかった。
「いつか言葉にするって約束してくれるなら、今は勘弁してあげる!」
「……約束する。今、考えている事があるんだ。時が来れば必ず約束を果たそう」
 言いながら彼の腕が背に回ってきて、優しく優しく抱きしめられた。
 千尋はそのぬくもりに抱かれ、そっと瞳を閉じる。
「……うん、待ってる……」

 ──この半月後、二人は誓いの日を過ごすことになる。
 贈られた常世の花嫁衣装と共に告げられた言葉は、千尋の一番大切な思い出になった──。

 

〜あとがき〜
 会員制サークルの投稿作品です。
 会報が発行されて〜、旅行行って〜。それで帰ってきたら更新しよう! と思っていたら、大変な事件が起きてしまいました。
 でもこんな時だからこそ普段の楽しみも得られるよう、萌も発信して行きたい!!(……この作品が誰かの萌になるかはまた別の話)
 被害に遭われました皆様には、少しでも早く状況が改善される事を心よりお祈り申し上げます。

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