dhyana 「雨降りしきりて」
大粒の雨が降りしきる。 癇癪を起こした子供のような空模様を見上げながら、千尋は大きなため息をついた。 「……困ったなぁ」 雨宿りをしている東屋には千尋一人しかいなくて、灰色の世界になった周囲に不安を感じずにはいられない。 荒れ果て、乾いていた大地に雨が降るようになったのは喜ばしい事だけれど、このように一人雨に捕らわれてしまうとは思わなかったので、千尋は途方にくれた。 「誰にも言って来なかったのよね……」 近くだし。すぐ戻るし。そう思って側仕えたちには何も言わずに出てきてしまったが、今ではちょっと後悔している。 大袈裟な外出準備になってしまうのを厭わずに、ちゃんとアシュヴィンの許可を取ってくればよかった。 「怒ってるよね、きっと」 雨が降り始めてもう大分経つ。一時期住んでいた現代の、時計のような精密な物は無いので細かい時間はわからないけれど、少なくとももう2時間は経っているはずだ。 それだけの時間が経てば、いかに千尋が誰にも言って来なかったといっても、根宮を不在にしている事はアシュヴィンに伝わってしまっただろう。 彼の怒ると無口になる様子を思い出して、千尋は肺を空にするくらいのため息をつく。 「アシュヴィン……ごめんね」 千尋の呟きは、降りしきる雨音に包まれて、儚く消えていった。 * * * * * 事の発端は、千尋が中つ国から戻ってきた時のアシュヴィンの疲れた様子だった。 千尋は常世の国の皇妃であると共に中つ国の王でもある。毎日の政務は狭井君などの忠臣に任せてはいるものの、常世と中つ国を頻繁に行ったり来たりして国を治めている。 そして今日、中つ国での政務を終えて数日ぶりに常世に戻ってみれば、夫であるアシュヴィンは何か問題が起きたとかで酷く忙しくしており、その精悍とした表情から精彩を欠いていた。 普段から臣下には弱った所を見せない人なだけに、それだけ憔悴したアシュヴィンを見た時千尋はとても驚いた。 しかし途中から千尋が首を突っ込んでも足手まといになるだけ。常世の事情にはまだあまり明るくない自分には、彼の手助けができない。 上に立つ者としての器量をよく見きわめろ。常々アシュヴィンに言われていた事もあり、その判断は冷静に下せたが、自分が役立たずだと自覚した時には千尋は少々落ち込んだものだ。 だって、好きな人が大変な時に、自分は何もできないなんて……。 政策を手伝えない代わりに、せめて休憩時に安らいでもらえる何かを贈ろう。そう思いついたのは今日の昼になってからだった。 「笹百合……は無理か」 真っ先に思いついたのは、笹百合の花を贈ること。あの芳しき香りの花をアシュヴィンの執務室に飾れたら。 そうは思ったけど、千尋はすぐにその考えを打ち消した。笹百合を贈る為には中つ国の出雲まで行かなければならないが、平良坂があるとはいえそれでは時間がかかりすぎる。 次いで思いついたのは、ガンゲティカを贈る事。 彼の花は、いつぞやアシュヴィンと出かけた時に、彼が名前を教えてくれた花だ。その時にアシュヴィンが浮かべた微笑みを見て、彼はこの花が好きなのだと瞬時に理解した。 「ガンゲティカも、いい香りだものね」 ガンゲティカならば、宮の斎庭に咲いている。それならばすぐに摘んで戻ってこれると千尋は笑顔を浮かべた。 「あ、そうだ……」 さっそく摘みに行こうと立ち上がったところで、千尋は自分付きの采女達を下がらせていた事を思い出した。 わざわざ呼び出して外出を告げれば、すわ皇后陛下のお出ましだ何だと、準備に時間がかかるだろう。今までの経験を思い出して、千尋はむぅと唸って腕組みをした。 「…………いいか、すぐに戻ってくるし。別にどこかの村に視察に行く訳じゃないんだから」 それを後悔する事になるとは、千尋はこの時微塵も予想していなかった。 |
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dhyanaの「雨降りしきりて」より、お話の冒頭です。 その他に2本収録しています。 |
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