Felix Culpa
一章 始まりは突然に訪れる |
ある日廊下を歩いていたら、いきなり優しく髪を掴まれた。 「──っ」 軽い衝撃に振り返ると、やたらと派手な顔立ちの男子が、長い指を自分の髪に絡ませていた。 この顔に出会ってからまだ二日だが、すぐに名前付きで誰だか思い出せる。転校生の藤原ヒノエだ。 「……何?」 彼とはまだ話した事もなければ、挨拶をした事さえもない。そんな自分の髪をヒノエが掴んでいる事が、ひどく不思議に思える。 訝しげな自分に戸惑うこともなく、ヒノエは静かに笑った。 「ごめん、痛かった?」 「……別に」 「ふふっ、綺麗な髪だなと思ってさ」 「……それはどうも…………」 誉められた事にとりあえず礼を言ってみたが、どうにもしっくりこない。いきなり何事だろうという違和感があるからだろうか。 同時に、ヒノエの馴々しさというか親しみがありすぎる態度に、望美は戸惑っていた。 望美の困惑を敏感に感じ取り、ヒノエがくすりと笑う。 「オレに髪を掴まれてるのはイヤ?」 「イヤじゃないけど、正直反応に困ってるよ」 質問にはっきりと答える望美に、ヒノエは笑みを深めた。 「へぇ、はっきり言うんだね。そういう性格って割と好きだな」 「……って言われても、ますます困るだけなんだけど」 本当に困った風な表情を浮かべる望美。 だいたい、よく知らない相手からいきなり性格が好きだと言われても、どう返事したらいいものか。 素直にそう述べると、ヒノエは笑顔の種類をガラリと変えて、望美に流し目を向けた。 「なら、オレの事を知ってほしいね。──オレはアンタに興味がわいたよ。名前、教えてくれるかい?」 「……春日…望美」 ニヤリという表現にふさわしく艶やかに笑んだヒノエに問い掛けられ、少々惚けながら望美は答えた。 「望美、ね。オレは藤原ヒノエ。長くて綺麗な髪、ってトコもオレの好みだね。できればこうして、ずっと触れていたいけど……」 指に複雑に絡ませて弄んでいた髪を引き寄せ、ヒノエは口付けを落とす。 「姫君の困惑をまた呼ばないうちに、今日は退散しようかな」 そう言うとヒノエは、望美の髪からあっさり指を解いた。そしてそのままどこかへ去っていってしまう。 その後ろ姿を見送りながら、望美は独りごちた。 「……十分困惑してるんですけど」 心なしか頬を染めて呟かれた言葉は、ヒノエには届かない。 「藤原……ヒノエ」 吐息のように漏れた声が、下校時刻を告げるチャイムと共に余韻を残して消えていく。 あとにはしばし立ち尽くした望美だけが、時を止めたように今の出来事を保存していたのだった。 「お〜い、春日!」 理科の教師の呼び止める声に、望美はゆっくりと振り返った。 「はい、何ですか?」 「お前、確か日直だったよな? スマンが準備室からノートを運んでくれないか? このあいだ回収したヤツなんだが……」 「あ、はい、わかりました」 先週提出したノートと理科準備室までの道のりを思い浮べて、望美は快く頷いた。 教師は引き受けてくれた望美に礼を言いながら、 「悪いな。ちょっと重いかもしれんから、将臣とかその辺の男子に手伝ってもらってくれ」 「なら、オレが手伝いますよ」 絶妙のタイミングで会話に入ってきた声に、望美はギクリとした。この割といい声は記憶に新しい……。 「おう、藤原か。転校してきたばかりなのにスマンな。準備室の場所なら春日が知ってるし、頼んでも大丈夫だな」 「はい、任せてください」 「あっ、あのっ先生! ノートくらい私一人で運べますから!」 このままではヒノエと二人きりで準備室送りになる。そう思った望美は慌てて言う。 その勢いに少々面食らいながら、教師は不思議そうに問い返した。 「任せろって言ってるんだから、この際藤原に全部持たせればいいじゃないか。なぁ?」 そうヒノエに同意を求めるが、彼はどうしてか笑っていて返事どころじゃないみたいだ。対して、望美は頑なに一人でノートを取りに行くと主張している。 変な様子の二人に首を傾げていた教師だったが、用事があることを思い出したらしく、わざとらしい咳払いをして、頼んだぞと言いつつ職員室へ戻っていった。 一瞬気まずい沈黙が──望美にとっては──訪れる。それを消し去るように、望美は口を開いた。 「わ、私一人で行くから、藤原くんは……」 「できれば下の名前で呼んでくれるかい?」 「……私が行くから、ヒノエくんは教室にいてくれる」 言い直す義理はないはずなのに、ヒノエの耳に心地いい声に、望美は下の名前で呼び直した。 ヒノエは望美の口から紡がれた自分の名前に破顔して、さっと理科準備室の方向に体を向ける。 「さっ、行こうぜ? 確かこっちでよかったよな?」 「えっ、あっ。わ、私一人で行くって──」 「姫君に重いものを持たせるなんて、オレにはとても出来ないね」 自分の後を困惑しながらついてくる望美に笑いかけ、ヒノエは言った。 「……たかだかノート四十冊じゃない」 「それでもさ。それに、お前と二人きりで過ごす時間が増えるしね」 「──っ!」 ヒノエの台詞と流し目に言葉につまり、望美は赤面して立ち止まった。 それ以上の一歩が踏み出せないでいる望美に、挑戦的にヒノエが告げる。 「どうしたのかい? オレと一緒は不服? ……それとも、せっかく自分の代わりにノートを運んでくれる男が現れたし、任せて逃げちゃう?」 「………………」 恐怖とは違うが、自分の進路に蜘蛛の巣がはられているような感覚に陥り、口をパクパクさせながらも望美の唇は音を紡げないでいる。 しばらくそのまま時が止まっていたが、やがて望美は大きく深呼吸をして、ヒノエより先に歩き始めた。 「ふふっ、よかった。オレと一緒に行きたいと思ってくれてるんだ?」 「勘違いしないでくれる? ノートを取ってくるように頼まれたのは私なんだし、それにヒノエくん、準備室行ったことないでしょ?」 揶揄するように言うヒノエに冷たく返し、さくさく望美は歩いて行く。 今の言葉は別に言い訳で言ったんじゃなくて、本当にそう思ったから言った。──だけど、自分でも言い訳っぽく感じてしまうのは、きっとヒノエの言動に心底戸惑ってるからだろう。 そんなことをグルグル考えてる望美を見つめながら、ヒノエはポツリと呟いた。 「責任感……か。ま、今はそれでいいか」 「えっ?」 「いや、何でもないよ」 何か言ったかと振り返る望美に首を振り、ヒノエは望美についていく。 その状況は長くは続かず、迷う事なく足を進めた望美の先導により、程なくして準備室に到着した。 大抵の理科準備室がそうであるように、この学校の理科準備室もいくつもの薬品の香りが混じりあったような、独特の空気で二人を出迎える。 「うわ〜」 病院や保健室と違って、微かに硫黄なども含まれた埃っぽい空気。もしこの部屋に長時間いなくてはならないなら、空気の入れ替えをしたいところだ。だがノートを取りにきただけなので、望美は顔をしかめつつも躊躇なく部屋に入っていった。 「あ、あそこにある」 奥の方の机に置かれているノートの山を見つけて、望美は準備室の奥へ進んだ。 「望美。そこ、足元危ないよ。オレが行くから」 「大丈夫だよ」 大型のプロジェクターから伸びたコード類が、ノートとの間に陣取っている。 一足で跨ぎ越すのは無理そうなので、なるべく安定のよさそうな場所へ足を踏み出した。 「よっと……うわっ!」 「望美っ!」 表面は安定していそうだったのに、どうやらその下が不安定だったらしい。体重を乗せた途端、望美はまるでお約束のように滑ってバランスを崩した。それを絶妙なタイミングでヒノエが抱きとめる。 「あぶ……っ」 手を前につこうとした前かがみの姿勢のまま、望美は安堵の息をつく。 「大丈夫って言ってた割には、大雑把なんだね」 「うっ……。ごめん、ありがとう」 「いえいえ。姫君を抱きしめることができて役得って、ね」 「えっ、あっ……」 ヒノエの言葉に今の自分の態勢を思い出し、望美はかっと赤面した。ヒノエと話しているとよく赤面してしまうけど、今までで一番赤くなっている気がする。 「あ、の……。もう大丈夫だから、離してくれない?」 「ふふっ、赤くなって、望美は可愛いね」 「かっ、可愛くなんかないから、と、とにかく離して!」 居心地悪げに身じろぎすると──なにせ抱きとめるために結構しっかりと腕が巻き付いていたから──ヒノエの腕が緩んだ。 「…………ふぅ」 「随分ほっとしてるんだね」 望美がほっと息を吐いたのも束の間、ヒノエの声と同時にまた抱きしめられた。 「やっ!? ちょ……っ!」 叫ぼうとする望美の唇に指を当てて黙らせ、ヒノエは耳元でささやいた。 「男心がわかってないのか、それとも解ってやってるのか。どっちにしろ、残酷な姫君だね」 ヒノエは望美の耳たぶをペロリと舐め、 「覚えておくといいよ。ウサギが逃げるほど、オオカミは追いかけたくなるんだからね」 「な、にを……ッ」 耳たぶを押さえて望美が振り返った瞬間には、ヒノエの腕は望美から離れていて、いつのまに移動したのか、ノートを持ち上げようとしていた。 「さて。早く用事を片付けなきゃいけないね」 まるで今の出来事なんか無かったように、ヒノエは飄々と言った。 あまりの明るさに一瞬夢だったと思いかけた望美だが、ヒノエに舐められた耳たぶが空気にひやりとし、現実に起こった事を望美に知らしめる。 ただ茫然と立ち尽くす望美をよそに、ヒノエはノートの束を持ち上げると、さっさと準備室を出てしまった。 「どうしたんだい、姫君? ぼーっとしていたいなら、先に行くぜ?」 ドアの所で一声かけると、ヒノエは言葉どおりに本当に先に行ってしまった。 埃っぽい準備室には、呆然とした望美のみ。 「……なに、今の……」 自分の価値観の向こう側にあるような今の出来事に、望美はまたしても立ち尽くしていることしか出来ない。 ──なら、オレの事を知ってほしいね。 先日ヒノエに言われたばかりの言葉をふいに思い出し、望美は苦しげに眉を寄せる。 「……わからないよ……っ!」 何だか胸が、とても苦しかった。 |
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Felix Culpaの一章です。 ずっと学園ヒノ神子を書いてみたいと思ってまして〜、やっとこ書きました。 本作では、ヒノエは現代人の望美さんと同学年設定です。 ご案内ページに書いた通り、出会いから恋人ゴールインまでギャグ〜ほのぼの〜シリアスをフラフラしながら、色んなイベントを詰め込めるだけ詰め込みました(お陰でまた無駄に資料探しの時間が……orz) ゲストで幼馴染腐れ縁な水瀬紫月さんより、現代ヒノ神子イラストをいただき、収録しています。 表紙と裏表紙は………………………………………今回無謀にも自分で描きましたorz |
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