刻 の 詠

序章  刻の砂  

 ──彼を見たとき、これは夢だと思った。


 いくら思っても叶わない願いが、幻となって現われたのだと。
 その願いが叶わないことはよくわかっているから、望美はその幻に触れるのがとても怖かった。
 だというのに、かの幻は望美の怯えにも気づかないで近づいてくるし、呟いた疑問にも答えるし。
 忘れたくないと思えば思うほど薄れていく彼のぬくもりなんか、忠実に再現してくれちゃって。
 会いに来たよ、なんて。時空を越えるのは容易い、なんて。
 そんなこと言われても信じられる訳ない。
 また私は目を覚ましてから、ベットの中で泣いてしまうんだって、決まってる。

「愛しい姫君、お題をどうぞ?」

 ──そんなこと言われたって!
 叫びたかったけど唇は凍りついたように動かなかった。
 そうしていたら、優しく優しく抱きしめられた。
 ふわりと吹いた風が運んでくるのは、懐かしいぬくもりと香り。
 夢が現実となった瞬間、望美は彼の腕の中で泣いた。


一章  刻の風(抜粋)  

「望美!」
 校門を出たところで名前を呼ばれ、顔を上げた望美は驚いた。
「ひ、ヒノエくん!?」
 駅へと続く小道を歩いてくるのは間違いなくヒノエ。こちらの世界に来てまだ数日だと言うのに、まるでこの世界の住人のように落ち着いた足取りで歩いてくる。
「ど、ど、どうしてここに!?」
「どうしてって……お前に会いたかったからだよ。それにお前が学んでいる場所っていうのにも、興味があったしね」
「じゃ、じゃなくって! 一人で来たの?」
 予期せぬ邂逅に頭の中をぐるぐるさせながら、望美がてんばり気味で問う。
「まぁね、有川の小母さんがここまで来る方法を教えてくれたからさ。電車、だっけ? あれはいいね、乗っているだけなのに馬のように早く移動できて。なかなか興味深かったよ」
 楽しげに話すヒノエは、手に持った小さなメモを望美に示す。どうやらそれが有川夫人のくれた行き方メモなのだろうが、それを見ながらとはいえ、全くのアウェーの中一人で電車にチャレンジしてしまうとは恐れ入る。
「よく無事に来れたね……」
 ヒノエの度胸と行動力のよさに今さらながら脱帽して、望美は乾いた笑いを浮かべる。
 苦笑いの望美に、ヒノエは魅力たっぷりに片目を瞑ってみせた。
「ふふっ、姫君の為ならこれくらい。今日は何て言ったか……そう、しゅうぎょうしきって日で早く終わる日なんだろ? 折角だし、姫君とデートといきたいと思ってね」
「デ、デート!?」
 その単語もヒノエの口から出ると思わなかったので、望美は盛大にうろたえた。
 思えば異世界で過ごしていた日々も、あまりデートという気持ちで出かけたことがなかった。ヒノエを好きだと自覚したのは出会ってかなり経ってからだったし。
 その気持ちも手伝ってか、デートと言われた望美は急に恥ずかしくなる。上気した頬を隠すように俯いた。
「……もしかして、迷惑だったかい?」
「えっ!?」
 俯いた望美を心配してヒノエの声がわずかに低くなる。慌てて顔を上げれば、悲しそうな色の交じった彼の微笑みがあった。
「悪かった。まだこの世界での機微に疎くてね。迷惑だったのなら、次からはやらないように気をつけるからさ」
「ち、違うの! その……えっと、きゅ、急にデートって言われたからその……恥ずかしくて……」
 先ほどを上回る勢いで頬が赤く染まっていくのを感じる。
 誤解は解いておきたい。でもはっきり言うのは照れてしまう。
 だんだん大きくなる混乱を一刀両断するかのように、望美は叫んだ。
「とにかく! 迷惑じゃないです!!」
 勢いよく言い切ったらちょっと頭がすっきりした気がする。
 ヒノエは望美の始めから終わりまでに唖然としていたが、やがて小さく噴きだして笑い始めた。
「ふふっ、姫君の気持ちはよくわかったよ。とりあえず、喜んでいただけたようで何より。──さて、ひとまず場所を変えないかい? ちょっと注目を集めすぎてるからね」
 軽やかに言われた言葉にはっと周囲を見渡すと、下校しようとしている生徒たちの視線を集めまくっていることに気づいてしまった。ただでさえヒノエは目立つ容姿をしているのに、連れの自分は思いっきり叫んでしまったのだから、まぁ当然といえば当然か。
 ひと段落しようとしていた頬の温度がまた上がりそうになって、望美は慌ててヒノエを引っ張り、校門の前を離れた。
「何処へ行くんだい?」
「とりあえずどこか!」
 駅は生徒で賑わっていたので、ひとまず素通りして海岸まで歩く。ヒノエとのんびり歩いているうちに、やっと気持ちが落ち着いてきた。
 そうして平常心に戻ってみると、今度はふと今の自分の格好が気になった。
 だって隣にヒノエがいるし。デートなんて言うし。髪が乱れてないかとか気になっちゃうよ。
 でもこっそりと手鏡を取り出して確認していたら、敏いヒノエに案の定見つかってしまっていた。
「……な、なぁに?」
「いや、別に何でもないよ」
「…………変なヒノエくんっ」
 頬を少し膨らませて、望美は不機嫌を装ってみる。
 きっとヒノエのことだから自分の内心なんてお見通しだろう。それでも、ヒノエは格好を気にする女性に何か言うような人間ではない。彼の女性に対する優しさに感謝しながら、望美は気を取り直してヒノエを振り返った。
「ねぇ、どこか行きたい所ある?」
「そうだね……。望美は?」
「私は特に。ヒノエくんの行きたい所に行こうよ」
 彼に案内してあげられる場所があることが嬉しくて、望美は自分でも気づかないうちに笑顔になる。
 望美の笑顔に応えるようにして微笑んだヒノエは、しばし考えてから提案した。
「なら、どこか海の見渡せる場所なんてどうだい?」
「海?」
「そ。この世界の海の景色も美しいからね。だけど、まだ落ち着いて眺めた事がないんだ」
 そう言ってヒノエは、目の前に広がる海を眩しそうに見つめた。
「海か〜……。なら高台から見下ろす海なんでどう?」
「いいね、サイコーだ」
 ヒノエの大きな笑顔に望美も嬉しくなる。
「じゃぁ、駅戻って電車乗ろう!」
 望美はヒノエの方向転換させ、軽やかに背を押して駅へと誘なう。
 海岸まで歩いたわずかな間に電車が一本通過したらしく、生徒たちの姿は無くなっていた。
 いつもとは反対方向の電車に乗り込み、二駅目。江ノ島駅到着のアナウンスを背に受けながら、二人は駅のホームに降り立った。
「お前の世界は、面白い物が溢れているね」
 電車から見える景色や通りのみやげ物店を見ながら、ヒノエが好奇心を瞳に煌かせながら呟く。
「豊かで、戦が無くて。皆明日が来ることを信じている、平和な世界だ……」
 ベビーカーの中で健やかに眠る赤子。それを幸せそうに見守りながら散歩する夫婦。犬を連れ歩く老人。はしゃぐ子供は追いかけっこをしながら道を走っていく。そして楽しそうに波にのるサーファー達。
「──この世界で、お前は生まれた──」
 大気の中の世界を見るように、ヒノエは全身でこの刻を感じる。
 そして一番傍に感じるのは、恋焦がれた愛し人の声とぬくもり。
「…………ヒノエくん?」
 小鳥のさえずりにも似た声に振り向けば、ちょっと困惑したような望美の顔がある。その表情に心配するなと笑みを返し、ヒノエは島へ通じる橋を渡った。
(……これが、望美の生まれた世界……)
 いま自分が抱いている気持ち、その気持ちはいいものばかりじゃない。平和な光景への羨み。この世界でなら、何の疑問も抱かずに彼女に幸せを約束できる気がする、そんな世界だ。
 しかしヒノエの故郷はここではないから、この幸せな風景にどこか嫉妬を覚える。──それを望美に悟られてしまっただろうか?
 その時、神社へと通じる上り坂を子供たちが駆け下りてきた。ヒノエは望美の注意を促す。
「おっと……。望美、こっち」
 やんちゃな子供にぶつかられないよう、彼女の手を引く。子供たちの接近に気づいてなかった望美は、走り過ぎた小さな風を見送りながらほっと安堵のため息をついた。
「ごめん、全然気づかなかった。ありがとう、ヒノエくん」
「どういたしまして。元気な子供たちだね」
「明日から春休みだからね。嬉しいんだよ」
「ふふっ、なるほどね」
 そうして、一度止まった歩みを島の頂上に向けて再開する。
「…………あの、ヒノエくん……」
「ん? 何だい?」
「えっと……もう子供たちいないから、手……離していいよ?」
 先ほど引きよせられた手。その手は役目を果たした今も繋がれたままだった。
 あちらの世界にいた時もあまり手を繋がなかったので、校門にいた時みたいに急速にヒノエとの関係を意識してしまって、ものすごく落ち着かない。
「ふぅん? 姫君は手、離したいんだ?」
「えっ、や、あの……」
「この世界では手は繋がないもの? そんな事ないよな? 他の恋人たちも手を繋いでる連中はたくさんいるし」
 望美が恥ずかしがっているのを見通した上で、わざとそんな風に聞いてくる。実際に手を繋いでいるカップルがそこここに居るだけに誤魔化すこともできない。デートスポットでもある江ノ島に来たことを、望美は少し後悔した。
「……ヒノエくんって、本当イジワルだよね」
「ふふっ、どういたしまして。でもオレも結構必死なんだぜ? お前にどんな風に想われてるのかを確かめたくて仕方がない。離れている間に嫌われちまったんじゃないだろうかって、ね。少し心配だよ。それで、どう? この手は離した方がいいのかい?」
 ゆっくり歩きながら、ヒノエは繋いだ手を掲げてみせる。
 望美は唇を尖らせて黙りこみ、しばしの後にぼそりと呟いた。
「別に繋いだままでいいけど……。でも、お参りする時は離してね」
「は? お参りする時?」
「江ノ島神社って弁天様なの。縁結びの神様だけど、カップルが手を繋いで参拝すると、弁天様が嫉妬して別れちゃうってジンクスがあって…………私、ヒノエくんと別れたくないもんっ」
 照れ隠しにわざとぶっきらぼうにしゃべってしまう。それでも一番伝えたい気持ちは伝わったようで、望美は繋いだ手ごと引きよせられ、彼の額が軽いキスのようにコツリと触れた。
「さ、お参りお参り!」
 些細な触れ合いが嬉しい。だけどまだそれを素直に表に出すのが照れくさくて、望美は誤魔化すように神社の階段を登る。
 お社を前にして二人の手は一度離れたが、参拝を終えた後どちらからともなく再び繋ぎあった。
 そのまま散策路南へ、手を繋いだままゆっくりと歩いていく。
「ああ。本当に、この世界は美しいね」
 途中にある高台から海を見渡して、ヒノエは賛美のため息を漏らした。
「驚くのはまだ早いよ。ね、次はアレに昇ろう?」
 望美の示す先には展望台がある。
 二人は江ノ島の頂上にある植物園へ入場し、初エレベーターにヒノエが驚いたりしながら展望台に上った。
「これは……!」
 眼下に広がる大海原。遠くに見える船は熊野のそれとは全く異なるもので、今さらながらに時空を越えたのだと実感してしまう。
「驚いた?」
「ああ、驚いた。熊野の三段壁から見下ろす海もサイコーだけど、この景色も幻想的でサイコーだね」
「ふふふふっ。驚いてくれてよかった。あ、でも、あっちの世界の方が緑も多いし、空気もおいしいだろうけどね」
 驚くヒノエが珍しいのか、くすくすと笑って望美。
「……かもね。だけどこの景色にはこの景色の美しさがあるよ。熊野は大いなる自然の美だけど、この世界には、人の手で作り出した美しさがある」
 技術や文化の違いに、憧れるかのようなその口調。
 ヒノエの景色を眺める表情が熊野の頭領としての顔をしていることに気づいた望美が、おずおずと問いかけた。
「……熊野が心配?」
「えっ?」
「ヒノエくん、何だかここじゃない場所を見てるような気が……するから」
 彼が誰よりも故郷を愛していることを望美はよく知っている。そのヒノエが熊野を離れ、この世界に来てくれたのはとても嬉しかったけれど、同時に大切なものと引き離してしまったような気がして申し訳なく感じる。
「あの……熊野が心配なら……」
 ヒノエは不安そうに揺れながら紡がれる声を遮って答えた。
「違うよ。熊野を心配してる訳じゃない。そんな顔をしないでほしいね」
 望美の下がり眉をつついてヒノエは笑う。
「ただオレは、きっと何処にいようと熊野別当なんだ。だから、何処にいてもつい熊野の為を考えちまう。ふふっ、そういう性分なんだろうね」
 肩をすくめてみせる仕草には、この世界には無い大地への信愛が溢れている。
「でもだからって、お前はそれを気にしなくていいんだよ。オレがお前の為にって、勝手に時空を越えてきたんだから」
「でも……」
 なおも言募ろうとする望美の唇に指を当てて言葉を奪い、ヒノエはにやりと笑ってみせた。
「お前はもっと我儘になりなよ。『熊野の事ばかり考えてないで、私を見て』って言ってくれてもいいんだぜ?」
「もぅ! ヒノエくんっ!!」
「はははっ、元気が出たようだね」
 抗議に飛んできた手のひらを避けながらヒノエは笑う。
 ふとその表情を改めて、望美を正面から覗き込み言の葉を紡いだ。
「前にも言ったけどさ、オレはいずれ、お前を熊野に連れて行く」
「…………うん……」
 真っ直ぐにぶつかる視線に頬に朱を乗せながらも、望美も瞳を逸らさず頷く。
「お前の世界はここだよ。故郷との突然の離別を、なし崩しに受け入れてしまうのは辛い事だよ」
 あちらの世界に召喚されたのは、本当に突然のことだったと聞く。けして短くない時間を共に過ごし、あの世界への愛着を持っていても、望美の故郷はここだ。もしあのままこの花を手折ってしまっていたら、いつしか花は月を見て泣き暮らすようになることだろう。
「だからオレはこうしてお前を帰した。……けど、お前に熊野の住み人になってほしいと願ってしまった。だから望美、この世界をたくさん感じて。そして故郷をもう一つ増やしてもいいと思えるようになったら、熊野へ──オレの元へ来てよ」
「ヒノエくん……」
 甘さとは違う深い愛情を感じ、望美は嬉しさで心が締めつけられるかのようだった。
「……私がおばあちゃんになるまでこの世界にいたいって言ったらどうするの?」
 今すぐに応えるのが癪だったから、ちょっと意地悪してそんなことを言ってみる。
 望美に駆け引きのような問いを仕掛けられて、ヒノエは嬉しそうに笑みを浮かべた。
「ふふっ、それは困るね。そうならないように頑張ってお前を口説くことにするよ」
 そして望美の顎を掬い取って、そっと引きよせる。
 近づいてくるヒノエの唇に、されるがまま瞳を閉じかける望美。しかしその時、遠くに鳴く鳶の声にはっと我に返った。
「ちょ、ちょっと待った!」
「…………何だい?」
 ストップをかける望美に、止められたヒノエが不機嫌そうな声を出す。
「こ、ここ外だから!」
「それがどうしたんだい? 別にいいじゃん」
「良くない! こっちの世界では、人目がある所ではこういうことしないの!!」
 展望台の屋上には他にもカップルや観光客がいるのだ。その場にいる全員の視線が突き刺さっているような気がして、望美は顔を真っ赤にして叫んだ。
「…………………………ふぅん」
 ヒノエはしばらく不満そうな顔をしていたが、それがこちらの世界の流儀なのだと重ねて言うと、しぶしぶながら望美の顎を解放した。
「ま、楽しみは二人きりの時まで取っておくけどさ……?」
 言いながら、今度は望美の手を取って引きよせる。その手の甲に唇を落とし、口付けざま熱い舌で望美の手に甘い痺れを与えた。
「っあ!」
「──これくらいは許されるよな?」
 にやり、と上目遣いのヒノエが望美を下から覗きこむ。
「も、もぅ! バカっ!!」
 茹ダコのようになりながら、望美は力任せに手を引き抜いて、さっさとヒノエに背を向けた。
「ホラ! 次は岩倉洞窟に行くからね!」
 スタスタと歩いていってしまう彼女に、ヒノエの表情に苦笑が浮かぶ。
 望美との恋は不思議だ。いつまでも恥らいが初々しい彼女なのに、全くもどかしい気持ちにならない。
 どころか、恥ずかしがる望美が可愛らしくてついからかってしまったりして、何だか自分は重症だと思う。
「ま、時空を越えようなんて思った時点で、とっくに末期かもしれないけどね」
 それだけ彼女に溺れていて、本気で手に入れたいと思ってしまった。
 願わくば、いつか熊野へと誘なった時に彼女が本心から自分に応えてくれればいいと思う。焦ることなく、心から自分を欲してくれたなら。
 しばし離れる故郷に思いを馳せながら、望美のうしろ姿を追いかけ、ヒノエは一人微笑んだのだった。

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 刻の詠(トキノウタ)の序章と一章から一部抜粋でございます。
 今回は(も?)ヒノと望の十六夜EDその後を書いてみました。
 なお、リメイクした話は「ふゆのさきぶれ」「柱に刻み込む時」「もうすぐ江ノ電折り返し地点」ですが、かなり雰囲気やシーンの持つ意味が変わっておりますため、あえて「再録本」とはしませんでした。
 また、表紙などのイラストを汐恵海さんに描いていただきました〜。

 

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